シンガポール通信ー岩波文庫「マゼラン最初の世界一周航海」

この本は、1519年9月にスペインを出発し初めて西回りで世界を一周し1522年9月に同じくスペインに帰着した、マゼランの船団による世界一周航海の記録である。出発した時には5隻で約250人からなる大船団であったが、無事スペインに帰着できたのは1隻のみ、また帰着できた乗組員は18名のみであった。またマゼラン自身は、航海途中のフィリピンで現地の部族の争いに巻き込まれ亡くなっている。

本書は、幸運にも無事帰着できた乗組員ピガフェッタによる航海の記録である。本書には他にも、生還者からの聞き取りによってまとめられたトランシルヴァーノによる記録も含まれているが、なんといっても実際の乗組員による記録の方が生き生きとしており、読んでいても楽しい。

マゼランの世界1週航海の意義を理解するには、当時の世界情勢(といってもヨーロッパ諸国の情勢)を知る必要がある。当時はポルトガルとスペインが海外からもたらされる黄金や香料などの富を求めて、世界をまたにして覇権を争っていた時代と言えるだろう。まずポルトガルは、インド経由で東南アジアへの進出を計画し、1498年のヴァスコ•ダ•ガマの喜望峰経由でのインド到着をきっかけとして、東南アジアでの権益特に香料の輸入に基づく権益を確立しようとしていた。

ちなみに種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人から鉄砲が日本にもたらされたのは1543年の事である。歴史で習った時には注意もしていなかったが、このような日本の歴史を世界史の中に位置付けてみると、歴史というのものなかなか面白くなってくるのではないだろうか。

一方で対立するスペインは、アジアへの進出ではポルトガルに押され気味であったため、東回りと反対の西回りでアジアに到達しようとした。その試みの最初がコロンブスの航海であり、彼は1492年にバハマ諸島に到着した。これはアメリカ大陸に所属する諸島であり、当初予定していたアジアではなかったが、これによりスペインはアメリカ大陸に権益を確立する事になり、これが1533年のピサロによるインカ帝国の滅亡などにつながる。

一方、西回りでアメリカをこえてアジアに進出したいとの希望をスペインは引き続き持っていたが、アメリカ大陸に南端がありそこをこえて太平洋に出る事が出来るという確証はなかった。それに対しマゼランは、アメリカ大陸の南端に大西洋と太平洋を結ぶ海峡があると当時のスペイン国王を説き伏せて、5隻からなる世界一周船団を作る事を国費まかなわせる事に成功したのである。

多分これはマゼランが、世界制覇でポルトガルと覇を競っているスペイン国王に対し、ポルトガルが取っている東回りの航海に対して新しい航路を開拓する事の必要性と重要性を必死に説いた結果であろう。もっとも当時はまだ、大西洋からアメリカ大陸の南端の海峡をこえた海が現在の太平洋という大海であるという認識はなく、海峡をこえた海はすぐアジアに近い海であると考えられていたらしい。

もしスペイン国王がそしてマゼラン自身も、太平洋という世界一の大海を乗り越える事が必要である事を知っていたら、はたしてそのような危険な大航海を認めるもしくはそれを行う決断が出来ただろうか。コロンブスの場合もそうであるが、知らないからこそ大発見が出来たわけである。このあたりは世界歴史の面白い所かもしれない。

さてこの航海記録の面白い所は、航海記録といいながら、航海途中の記録があまり無い事である。記述は主として寄港先の出来事、しかも主に現地の原住民との関わり方に関しての事が中心になっている。大西洋横断の航海に関する記述はほとんどなく、大海である太平洋横断の記述もほんの数ページである。

大西洋に関しては既にそれまでも南アメリカへの航海は行われていたから、どのような物かは予測がつく訳であり、それに関する記述がほとんどないのは理解できる。しかし、110日ほどを要した太平洋横断航海に関する記述が少ないのはなぜだろう。来る日も来る日も島影を期待しながらの長い航海の様子が、もっと記述してあるのではないかと予想していたのであるが

もちろん食べ物と言えば虫のわいた乾パンや腐った水だけであり、壊血病で死ぬ乗組員も10人以上出た事は記述してある。それにしてもそのような大変なもっというと悲惨な航海の様子があまり記述していないのはなぜだろう。

(続く)