シンガポール通信ーアラン「幸福論」2

前回は、アランの「幸福論」を読んでいてデカルトの「情念論」を思い出したと書いた。なぜだろう。

デカルトはよく知られているように、人間が精神と身体からなるという「心身二元論」を説いた哲学者である。そして西洋哲学の流れを受けて当然ではあるが、デカルトが精神の働きという時、それは理性的な精神の働きをさしている。そしてそれを突き詰めて行った極限として、「我思う故に我あり」という、理性の働きがすべての基本であるという有名な原理に行き着く。

そうすると、そこで抜け落ちてしまうのが、精神の働きのもう1つの側面である感情の働きである。デカルトの基本的な考え方においては、精神の働きのうち感情の働きは無視されていたのであるが、彼が書簡を取り交わしていたドイツのファルツ選帝侯フリードリヒの皇女エリザベートから感情の働きに関して質問されたところから、それに関して考えそしてそれが「情念論」へとつながったのである。

「情念論」では、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみの5つの基本的な感情がどのようにして生じているかが論じられている。そしてそれが体の動き・状態と密接な関係があることが述べられる。具体的には動物精気とよばれる一種の液体が身体の動きに伴って生じ、それが血中を通して脳の松果体に達する事によって各種の感情が生まれると説かれている。そしてまた、動物精気が松果体から体の各部分に送られる事により、種々の体の運動が生じていることも説かれている。

つまり、体の動きと感情は密接な関係があるのである。この考え方は全面的に正しいとは言えないが、精神と身体の間に密接な関係がある事を示唆しており、現在でも基本的には正しい説であるとみなされている。

しなしながら、デカルトはここまで感情と体の密接な関係に気付いていながら、それでは感情を抑えるにはどうすれば良いかに関してはあまりはっきりとは述べていない。それは、彼のような理性の人にとっては、感情はあくまで二次的な物だったからなのかもしれない。

しかし一般の人々にとっては、感情は時には人々を悩ませるものである。他の人に対する憎しみの感情や、過ぎ去ってしまった事に対する後悔の念・悲しみなどは誰でも経験する感情であり、またそのような感情からなかなか逃れられないことが苦しみとなるというのも私達自身もよく経験する事であろう。

アランの「幸福論」はデカルトが感情と体の動きの関係を説いたところから出発し、それを延長してそれでは感情を制御するにはどうすれば良いかを説いた書であると考えていいだろう。

例えばアランは、気分が沈まないようにするため、意識的にあくびや背のびをして気分をリラックスさせるのがいいと述べている。たとえば悩みがある場合には、どうしても机に向かってずっと考え込んでしまいがちである。しかしそのような場合こそ、意識的に立ち上がってあくびをしたり、背伸びをする事が悩みの軽減につながるといっているのである。

また彼は能動的に行動する事の重要性を指摘している。たとえば芝居を見ていると時に退屈する事がある。しかし自分で芝居を演じている場合には、演じるのに一生懸命で退屈するどころではない。つまり能動的に振る舞う事が負の感情を抑えるのに役立つと説いているのである。

つまり体を動かす事その事が、負の感情を軽減したり抑圧したりする事につながるというわけである。もちろんそれだけですべての負の感情が抑えられるわけではない。深い悩みを持っている人にそれを説いても、バカにするなと一蹴されるかもしれない。もちろんアランはそのことはわかっている。

アランの優れているところは、そのようなごく簡単な誰でもできるような行為から始めるのであるが、そこにとどまるのではなく徐々により高度な精神の働きの重要性へと人々を導いて行くところにある。そして最後は苦しみを乗り越えようとする努力、意志の力の重要性にまで説き至るところである。

そして最後には、そのようにして得られる幸福とは何だろうという哲学的な疑問へと、人々を導いて行く。このあたりが、並のハウツー本とアランの幸福論の大きな違いであろう。