シンガポール通信ー岩波文庫「水滸伝」2

水滸伝は、日本で言うといわゆる講談に相当する短い挿話をつないだ体裁を取っている。そのそれぞれが第何回という形になっており、全体で百回の講談をつないだのが水滸伝の全体の構成である。

そのそれぞれの回の最初では、導入部として前回の結末が簡単に述べられる。また各回の最後は豪傑同士の対決などのクライマックスシーンになっており、「さてこの続きはどうなります事やら次回をお楽しみに」という次回に期待を持たせる形で終わっている。さらに風景を描写する際や、豪傑同士の対決シーンを描写する際などには、随所に漢詩を用いる事によってそのシーンの緊迫感を高めるといった工夫がなされている。

日本には講談師が聴衆を前にして軍紀物などを語る講談という伝統芸能があるが、その原型はこの水滸伝などの中国の小説から来ているのだろう。もちろんそこでは全体のストーリーも重要ではあるが、それぞれの回にある程度の独立性を持たせクライマックスシーンを用意する事により、聴衆を喜ばせる事も必要だったのであろう。

水滸伝の場合、梁山泊宋江により率いられる108人の豪傑達が集まる過程に重点がおかれ過ぎであるという感覚を持つのも、豪傑達が梁山泊に来ざるを得なかった挿話のそれぞれが講談物として聴衆の受けを狙う必要があった事と関係が深いのであろう。

具体的に言うと、100回よりなる水滸伝全体の構成のうち、最初の約70回が108人の豪傑達が梁山泊に集結して行く過程を描いている。そしてその次の約10回が、108人の豪傑達に率いられた梁山泊軍が朝廷から派遣された官軍との戦いを描くのに費やされている。

官軍を打ち破った後、108人は自分たちが皇帝により代表される朝廷に対して直接反乱を企てる意志のない事、皇帝を取り巻く奸臣たちによる悪政を除く事が本来の目的である事を訴え、朝廷から招安されると共にその真意を示すために、北宋に侵入を企てていた北方の契丹人の王朝遼と戦うことになる。これに約10回が割かれている。

ここまでは、厳しい戦いがあるにせよ108人の豪傑達は一人も欠ける事なく戦いに勝利をおさめる。豪傑達の勇猛果敢な戦い振りが物語の中心となっており、講談師が講談として聴衆に語るにはもってこいの展開であろう。

しかしながら最後の10回になると、突然ストーリーの展開が変って行く。最後の10回では、遼との戦いに勝利を収めた事を受けて、さらに強敵である方臘の乱を起こしていた方臘軍と戦う事になる。(これは、梁山泊軍の戦果を面白く思わない奸臣たちが、梁山泊軍と方臘軍の戦いによる共倒れを画策したものである。)

方臘軍は、これまでの戦いの相手に比較すると群を抜いて強敵である。小説の相変わらずの講談調の語り口は変らないのであるが、その内容はこれまでの戦いとは一変し、108人の豪傑達が次々と倒れて行く様が淡々と語られて行く。そしてなんとか敵を倒し反乱を平定した時には、生き残った豪傑達は当初の三分の一にまで減っていた。

生き残った豪傑達は、朝廷に招聘され皇帝から直々の言葉をもらうと共に、それぞれが官職をもらうことになる。しかしながら、これも宋江達の快挙を面白く思わない奸臣たちによって、中央の官職ではなく戦果にはそぐわない地方の官職が与えられただけであった。

さらには、それでもなお生き残った豪傑達が宋江のもとに集結して反乱を起こす事を警戒した奸臣たちは、皇帝からの賜杯と称して毒酒を送り宋江たちを毒殺する事を計画する。宋江らはもちろんそれはわかっていたのであるが、自分たちの役割が終わった事を自覚しており、毒と知りながらあえてそれを飲みほす。これによって梁山泊軍は滅んだのである。

英雄達の活躍を描いた物語は古今東西多いけれども、その多くが最後は悲劇として幕をとじしているものが多いのではあるまいか。水滸伝もその例にならっているという事もできるであろう。そしてそこにはやはり、物語の聞き手としての一般民衆の願いが反映されているという事ができるのではないだろうか。

皇帝という絶対的な権威には敬意を表しつつも、時としてその圧政に苦しめられた庶民は、朝廷を転覆するのではなくてその圧政を取り除いてくれる英雄の出現を願ったのであろう。そしてそのような英雄達が偉業を達成した後は、朝廷の中核に取り入れられてしまうより、いいかえると権力に迎合してしまうより、英雄的な最期を遂げる事により永遠に人々の記憶に残る事を願ったのであろう。宋江たち108人の豪傑達の場合も、彼等の像を安置した廟が建てられ、人々の間でその英雄的な行為が語り継がれたと物語の最後に記されている。