シンガポール通信ーアラン「幸福論」

アランはフランスの人。1868年に生まれ1951年に没した。40年間リセ(高等中学校)の哲学教師を務めた。その経歴からすると哲学教師ではあるが、「幸福論」などで広く知られており、哲学者と呼んでいいであろう。

アランは哲学教師を務めている間、プロポ(哲学断章)と呼ばれる短い哲学的考察を毎日の日課として書いていたという。そしてその多くは新聞に掲載された。彼が今日広く知られているのは、そのプロポから代表的なものを抜粋してまとめられた「幸福論」に負うところが多い。

「幸福論」の内容は、そのタイトルの通り、日々の雑多な悩みからいかにして抜け出ることができるか、言い換えれば心の平安を保てるかを種々の面から論じたものである。その意味では、どうすれば悩みを解決することができるか、どうすれば幸福になれるかを論じた本、言い換えるとハウツー本であるといえなくもない。

日本の書店には多くのハウツーものの本が並んでいる。いわく「いかにして部下に信頼出来る上司になれるか」「いかにして株で儲けることができるか」「いかにして異性の心を引き寄せることができるか」などなどである。一般の書店で見かける本の多くはこれらのハウツー本である。

一般の書店に並んでいるのは、週刊のコミック誌や週刊誌、月刊のファッション雑誌や趣味の雑誌、そしてそれに加えハウツー本や文庫本の小説などであろう。岩波文庫などは一般の書店には並んでいないしある程度の規模の書店でも片隅に申し訳程度に並んでいる程度である。中規模の書店の書棚を飾っている本の多くはハウツーものであると言っても過言ではないかもしれない。

「幸福論」が、いかにして悩みをなくすことができるか、もしくはいかにして幸福になれるかを論じた本であるとすれば、これもハウツー本と呼んでも良いのかもしれない。しかしもちろんそうではない。その証拠に、「幸福論」は岩波文庫の一冊として哲学書として分類される書棚に並んでいる。

「幸福論」を他の雑多なハウツー本と区別するものは何だろう。これは一見当たり前のように見えて、まともに答えようとすると結構難しい問題である。これを論じるだけで本が一冊書けるかもしれない。いろんな見方があるのだろうけれども、私の考えるところでは次の2点にあるのではないだろうか。

1つは、一般のハウツー本が高尚な内容を装っていても結局は「金持ちになりたい」「出世したい」という、一言でいうと人間の物理的な欲望をかき立てる目的のために書かれていることである。それに対して「幸福論」は、悩みを軽減する方法を説いているように見えるけれども、それを通して本当に説きたいのは、悩みとは何かそしてその対極にある幸福とは何かを読者に考えさせ、そしてその先にある人間とは何かを読者に考えさせることにあるからだといえるだろう。なるほどそうなると「幸福論」は哲学書に分類されても不思議ではない。

そしてもう1つは、著者の態度にあるのであろう。ハウツー本の場合は、人間の欲望に訴えることによりその読者に本を買ってもらい、売り上げが増えることにより結局は著者自身の収入が増えることを著者が願っているという前提のものに書かれたものといって良いだろう。つまり読者の物的欲望を満たすことにより著者自身の物的欲望を満たすことを目的としているのである。

それに対して「幸福論」はそして他の哲学的著作も、物的欲望とは無縁のところにある。そしてその目的は、人とは何かという遠大な疑問に答えようとする純粋に心的欲求から出発しているのだろう。そして残念ながら現実には、物的欲望が人を引きつける引力の故に大半の人たちは書店のハウツー本のコーナーに群がり、岩波文庫哲学書や一般の哲学書を陳列してあるコーナーには人がまばらであるのであろう。

とまあそんなことを考えながらこの本を読んでいると、興味深いことに気づいた。アランは随所で、私たちの心的な悩みの多くは感情から来ており、そして感情は身体と密接に結びついていることを説いている。そして負の感情を遠ざけるためには、まず身体をそのような方向に動かすことが大切であることを説いているのである。

具体的には、悲しい場合や心が塞いでいる場合は、無理にでも笑顔を作ることによりこのような負の感情を追いやることができることを説いている。また、何をするにもおっくうで引きこもりがちな心の状態の時には、散歩をするなどで体を動かすことが効果があることを説いている。これらを読んでいて私が感じたのはデカルトの「情念論」との関係である。

(続く)