シンガポール通信ーメディアの歴史と西洋のアジア化

メディアの歴史と東洋文化の関係を考える時、忘れてはならないのは現在起こっている事を東洋文化の立場からどう考えるかということである。

マクルーハンは「グーテンベルグの銀河系」で、印刷術の発明が西洋の人々の考え方に大きな影響を与えた事を種々の文献を引用しながら詳述している。これは読んでいて大変楽しい。それに対して「メディア論」においては、「メディアはメッセージである」「ホットメディア・クールメディア」等の話題になった単語やフレーズを作り出しているが、各メディアの分析論に関しては現時点では必ずしもすべてが正しいというわけではない。

これはやはり1960年代当時の状況に基づいて、当時普及していたメディアに関する考察を進めたためであり、マクルーハンと言えど時代の制約を受けざるを得なかったのではなかろうか。

例えばラジオとテレビは現在ではいずれも「聞き流すメディア」「見流すメディア」になっており、同じメディアのジャンルに属すると考えられるが、マクルーハンによればラジオはクールメディア、テレビはホットメディアと別のジャンルに分類されている。これは、当時はまだテレビは、人々が集中して見るメディアであった事が反映されていると考えられる。

さて現在起こっている事をどう考えるべきだろうか。1つの特徴的な現象は、マクルーハンが予想したようにニュースを(ごく一部の国を除いて)全世界の人たちがほぼ瞬時に共有できるいわば距離がない世界が実現されているということである。これは彼が「地球村」という言葉で表現したものである。

それではツイッターフェースブックのようなソーシアルネットワーク(SN)はどう考えるべきだろうか。SNは距離や国境・文化の境界を超えて人々が交流できる空間を実現したという言い方ができるだろう。そこで実現されているものは地球村であると言って良いだろう。しかしながら、マクルーハン地球村という言葉でそれを予言したというのは、言い過ぎであると思われる。彼はあくまで直感によって地球村という言葉を作り出したのであって、それがSNを意味しているわけではあるまい。

彼は地球村の概念によって、表音文字をベースとし視覚が他の感覚から切り離された西洋の文字社会が、表音文字を持たない非文字社会へと先祖帰りする可能性を予言している。これはある意味で彼の直感の鋭さを示しており、それが現在起こっている事であると言う事もできる。

しかしながらここでもまた、彼は直感に導かれてそう書いているのであって、現実問題としてどこまで正確に現在起こっている事を予測していたかというのは別問題であると私は考えている。

私が従来から注目しているのは、会議やディナーなどの席でメールをチェックするという、公(おおやけ)と私(わたくし)を混同するような行為、が欧米人の間によく見られるようになったという事である。いやもっというと欧米人の方が平気でこの混同を行う。1対1で会話している際にもメールのチェックを行う欧米人によく出会うが、私達からするとそこまでやるかという感覚である。

これなどは、公と私の分離を必須として来た西洋社会において、そのルールが壊れ始めている事を意味している。そしてルールが壊れ始めると、それまでルールに縛られていた西欧の人々ほどその破り方において限度がないという事を示しているのではないだろうか。

それに対して私達東洋人は本来公と私の区別・境界があまり明確でない。そのあたりをこれまでは欧米人から揶揄されて来たのであるが、境界が曖昧であるが故にこそ、それぞれの行為をさらに高度なルール・マナーのようなものに従って判断しているのではないだろうか。そしてそのために1対1の会話中にメールを見るというような行為を行わないのではないだろうか。

マクルーハンの考え方を適用すると、これこそが文字文化に基づいた行為が非文字文化に基づいた行為へと先祖帰りをしているという事になるのであるが、マクルーハンが本当にそれを予測していたかという事になると、それははなはだ疑問である。私はむしろ先祖帰りという言い方より、西洋社会が東洋化・アジア化しつつあるという言い方の方が正確であると考えている。

そして西洋のアジア化という観点から現在起こっている事を理解しようとすることにより、現在がより良く理解できるのではないだろうか。マクルーハンの「地球村」という考え方はいわばそれを直感的に示したものであって、ある意味でまさに名言なのであるが、それの本当に意味するところを明らかにして行く事が重要ではないだろうか。