シンガポール通信ーマクルーハン「グーテンベルグの銀河系」なぜ東洋文化への言及がないのだろうか

さてマクルーハンの「メディア論」と「グーテンベルグの銀河系」について何度か論じて来たので、一旦この辺りで打ち止めにしたいと思っているが、最後に「グーテンベルグの銀河系」で彼が論じている印刷術の発明の重要性とアジアと西洋の関係について、すこし付け加えておきたい。

彼がこの本で論じている事は、印刷術の発明が全感覚を使って感じたり考えたりしてきたそれまでの人々の頭脳の使い方を変えたという事である。具体的には印刷術が人々を、単なるアルファベットという表音文字のつながりの情報を目から入れ、頭の中で論理的な処理を行う事によりその意味を理解するという、いわば論理的思考にかたよった頭脳の使い方をする人間にしてしまったということである。これをもって彼は、「活字人間の形成」といっているわけである。この部分については同意できる。

ところが実は、これはあくまで西洋世界で15世紀の印刷術の発明によって起こった事であって、その意味では西洋世界での出来事に限定されているのである。彼は西洋におけるように表音文字をベースとした社会・文化を「文字社会」と呼び、それに対して文字を持たないもしくは表意文字をベースとした社会・文化を「非文字社会」と呼んでいる。

そうすると非文字社会としては、アジア、アフリカ、南アメリカなど西洋社会以外の社会がすべて含まれるわけである。これはある意味で驚くべき事であって、いうならば全世界規模で見た場合、米国も含めた西洋社会がそれ以外の社会と異なっており、つまりは西洋世界が特殊な社会であるというという見方もできる。したがってそのような見方から、マクルーハンが印刷術の持つ意味と重要性を考える事もできたのではないだろうか。

しかし残念ながら、マクルーハンの場合もあくまでも西洋社会を基盤としたものの見方に終始している。この本の中で、文字社会に対してその対象物として取り上げられている非文字社会の例は、大半がアフリカなどの社会であって、それは未開社会という見方のもとで取り上げられているようである。

例えばアフリカ人の観衆が映画を見る時、単なる鑑賞者として見るのではなく参加者として映画の登場人物と一緒に歌ったり、登場人物の行為にコメントを加えたがる事を指摘している。

(実はこの部分は、日本における昔の映画鑑賞の仕方を思い出させて大変興味深かった。私の小中学生の頃の映画鑑賞は、まさにそのようなものだったからである。例えば善人がいじめられている場面に鞍馬天狗白馬童子が颯爽と現れると、皆で拍手喝采したものであるし、なかには「がんばって」などとかけ声をかける観客もあった。少し脱線するけれども、飛行機が無事着陸すると皆で拍手するという習慣が、つい最近までアメリカを中心にあったのをおぼえておられる人も多いのでははないだろうか。)

これはある意味でなかなか興味深い事を意味している。マクルーハンは、電気技術が距離の概念を破壊し全世界をあたかも小さな村のようにしてしまうという、「地球村」という概念を提唱した事でも有名である。これは、一般的にはネットワークによって全世界がつながった現在のネットワーク社会を予言した言葉として有名である。しかしながらこの本で書かれたあまりにも西洋社会中心の記述を読んでいると、彼もやはり西洋社会の中で教育を受け、西洋的考え方を身につけた西洋的人間であるという印象を持ってしまう。

もう1つ彼が主張しようとしている事が、印刷術の発明によって活字人間となった西洋人が、電気技術やそれに基づく電話やテレビなどのメディアの出現によって再び変質するのではないだろうかという事である。これも基本的には正しい予言であり、そしてそれが現在起こっている事であると私は考えている。

しかしながら、西洋の文字社会のあり方を中心にすえ、それ以外の非文字社会はあくまで「その他大勢」というマクルーハンの見方は(そしてそれは大半の西洋の哲学者・評論家などの見方であるが)、文字の発明・印刷術の発明という二大発明に次ぐ電気技術の発明に基づく大きな変化に関する深い考察に彼が至るのを妨げているのではないだろうか。

ここにこそ私達が、特にアジアに地盤をおくアジア人・日本人としての私達が、マクルーハンの考え方を引き継ぎつつも新しい考察・見方を展開する可能性が開けているのではないだろうか。そしてその際考慮しなければならないのは、中国・日本などの西洋に勝るとも劣らない長い歴史と豊富な文化をベースとしたアジア社会と西洋社会との対比という観点からメディアの歴史を見る事ではないだろうか。