シンガポール通信ーマクルーハン「グーテンベルグの銀河系」2

さて前回マクルーハンの「グーテンベルグの銀河系」を読んだ感想として、今私達が行わなければならないのは、彼のメディア論を再び現在という時点において見直したり再評価することではなかろうかと書いた。

現在メディアを巡る状況は急速に変わっているように見える。出現して以来ほんの数年でツイッターフェースブックという新しいメディアが全世界で数億というユーザを獲得し、しかも急速にユーザ数が増加しつつある。このような状況を見ていると、メディアについて何かを語ってみても、それはすぐに古くなる可能性があると人々は思うかもしれない。

そしてそれが現在、メディア論に関する本を読むとその大半が現在起こっている事を単に観察した記録であったり、またこれまでのメディアの歴史に重点をおいて記述し、現在起こっている事についてはごく簡単に触れるという記述内容になっている事につながっているのだろう。また一時期はやった未来論が現在影を潜めていることも、未来を予測する事が困難でありまた誤る可能性が多いことから、それを行う事を識者がためらっているからという理由で説明する事ができるかもしれない。

しかしながらマクルーハンのようにある意味で俯瞰的な立場もしくはメタな立場で物事を見て行く事により、あたかも混沌としているように見える現在のメディアに関する状況はもっと明確に見えてくるのではないだろうか。その意味で、マクルーハンの見方は私達が現在のメディアで起こっている事を理解するのに大いに役に立つと思える。

とは言いながらマクルーハンが「マクルーハンの銀河系」や「メディア論」を著してからすでに半世紀、その間にインターネットを基本とする種々のネットワークメディアが現れている。これらのインターネットメディアをどう位置付けるのかなどの新しい課題が現れていると言っていいであろう。

そこで今メディア論を論じるとすれば、マクルーハンの見方に対してどのような新しい見方を加えるべきかを少し考えてみよう。もちろんこれを詳細に論じるとするとそれだけで本を書く事になるだろうし、それぞれに詳細な考察が必要になるだろう。したがってここではあくまでいくつかの論点をあげてみるということにとどめておこう。そして必要に応じてそれらの個々についてこのブログで論じることにしたい。

まず、やはり最も大きな課題はマクルーハンの時代にはなかったインターネットの出現によってネットワークメディアという新しいメディアが現れている事である。そのため以下のような考察が必要であろう。

マクルーハンの時代の電気+電話というコミュニケーションの基本技術に対して、ネットワーク技術・ネットワークメディアは何か全く新しい側面を提供しているのだろうか。それとも電気+電話の延長としてネットワークメディアをとらえる事ができるのだろうか。

私の感じるところでは、マクルーハンは直感的に電気+電話がそれまでの印刷技術に基づく活字人間を何か別の人間に変えることは予測していたと思う。しかしそれが具体的にどのような形で変えるかまでは言及していない。彼は「部族人間」という言葉を頻繁に使っている。しかしそれが現在において何を意味するのかは具体的には論じていない。(これはマクルーハンのうまいところでもある。)

マクルーハンが「地球村」という時、それは単に全世界の人たちがほぼ同時に情報を共有できる事を意味しているのだろうか。それともいわゆる人々の思考様式が「村社会」もしくは「ギリシャ都市国家」時代のように先祖帰りする事を意味しているのだろうか。もちろんこれは後者であって、それをもって上に述べた「部族人間」という言い方をしているのだろう。しかしもう一度言うと、現在の都市に住む人々と「部族人間」のつながりはもっと明確に述べる必要があるだろう。

またなぜ電気技術が活字人間を終焉させるのかについても明確な説明がない。電気技術が距離の概念を破壊する事が直接活字人間の終焉につながるというのは、論理的に無理がある。ここはもっとわかりやすい説明が必要であろう。

そしてこれらの事を考えて行くと、マクルーハンは印刷技術によって形作られた活字人間を電気技術が変えてしまう事までは
予測しているのであるが、それがどのような過程を経てどのように変えていくかまでは予測できなかったのではあるまいかと思いたくなる。これはある意味で当然ではあるまいか。電気技術による変革の発端は電信技術の発明までさかのぼるとはいえ、現実に電気技術が人々を変えようとしているその入り口に彼は立っていたと理解する事もできるのだから。

そしてもちろん私達もその変革のまっただ中にいるわけであるが、少なくともマクルーハンから半世紀を経て、彼の時期に比較すると起こっていることの全貌は少しはわかりやすくなっているのではないだろうか。

(続く)