シンガポール通信ーマクルーハン「グーテンベルグの銀河系」

シンガポールは金曜が休日で3連休だったので、この連休を利用してマクルーハンの「グーテンベルグの銀河系」を一気に読み終えた。結論から言うと、私にとっては大変興味深い内容であった。

「グーテンベルグの銀河系」でマクルーハンは、グーテンベルグによる印刷術の発明が西洋世界にどのような影響を及ぼしたかを、種々の文献を引用しながら述べている。印刷術が、表音文字であるアルファベットの存在と密接な関わりがあることは明白であろう。マクルーハンが主張したいのは、印刷術の発明が表音文字を基礎とした西洋の文字文化を確立したこと、そしてそれにより「活字人間」を作り出したということである。

活字人間とは、表音文字であるアルファベットにより書かれた書籍を通して知識を得、また文字を使って思考し、さらに文字を使ってコミュニケーションするというタイプの人間である。

表音文字を使って思考し、コミュニケーションするということはどういうことか。それは、すべての感覚を通して外界の情報を得、またすべての感覚を用いて思考する(というよりは感じる)という本来の能力を持っていた人間が、目から入ってくる文字情報のみに依存した人間へと変わることを意味している。これをもって活字人間というのである。そしてこのことを、マクルーハンは全感覚からの視覚の分離と呼んでいる。

活字人間の形成は、もちろん表音文字が言葉を書き写す文字として取り入れられた時に始まっている。表音文字は、ギリシャ時代に用いられたギリシャ文字を発端として、ローマ時代に用いられたローマ文字を経て現在のアルファベットとして成立している。

その意味ではすでに、ギリシャ時代に活字人間は形作られ始めたのであるが、それはごく少数の人たち、特に哲学者・数学者の間に限定されていた。そしてローマ時代の後の長い中世時時代の間も、それは少数の限られた人たちに限られていた。それが、15世紀半ばのグーテンベルグによる印刷術の発明により、一挙に書物が一般の人たちの間にも普及した。そしてそれにより、西洋社会の人たちが活字人間になったのである。

マクルーハンというと「メディアはメッセージである」とか「ホットメディア・クールメディア」などの言葉で良く知られており、現在のメディアに関する論客との認識が一般である。その観点からすると印刷術の与えた影響に関して詳細に書かれたこの本が、現在のメディアに関してどのような意味を持つのかいぶかしく思う人たちが多いだろう。

そしてメディアの歴史というよりは現在のメディアにのみ関心を持っている人たちからすると、「メディアはメッセージである」とか「ホットメディア・クールメディア」などの言葉が現れないこの本は退屈であり、眠くなってしまうかもしれない。しかし現在のメディアの状況をメディアの長い歴史の中で位置付けようとする立場からすると、この本はある意味で必読書である。

私自身もメディアを歴史な観点も含めて考えて来たのであるが、文字の発明と印刷術の発明が現在のメディアを考える上でも極めて大きい意味を持っていることは直感的に感じていた。私は特に西洋と東洋の哲学の歴史とメディアの歴史を関連付けて考えようとして来たのであるけれども、その立場からすると、プラトンに端を発する西洋二元論と一方の東洋一元論の対比に基づいてメディアの歴史を考えるのが適切ではと思うようになった。

そのような立場から考えて行くことにより、印刷術の発明の位置付けとしては、西洋二元論的考え方が一般の人にまで広まったことが印刷術の発明による書籍の一般の人たちへの普及と深い関係があるという結論に達することになった。

そのような立場から印刷術の発明が人々にどのような影響を与えたかを調べなければと思っていたので、まさにマクルーハンのこの本はそのような欲求に応えてくれる本であった。しかしながらマクルーハンの主張に単に同意するだけでは新しい思想は生まれない。今私たちがすべきことは何なのだろうか。

マクルーハンの思想で抜けているのはやはり現在のメディアに関する分析であろう。「グーテンベルグの銀河系」や「メディア論」は1960年代に書かれたため、当然現在のネットワークを基盤としたメディアはまだ現れておらず、それに関する記述はない。もちろん電話は既に存在しており、マクルーハンはそれをベースとして、距離の概念が意味をなくし地球が小さな村のようになるという将来を正確に予測している。

これは驚くべき洞察力であるが、しかし同時にソーシアルメディアのようなメディアの存在を正確に予測していた訳ではない。やはり現在の状況をベースとしてもう一度メディアというもののあり方を再分析・再検討する必要があるのではないだろうか。

それからもう1つは文化的視点である。マクルーハンの視点はあくまで西洋の歴史・西洋の文明という立場からのメディアの考察である。西洋以外の文化圏に関しては、アフリカの原住民のメディアに対する接し方(例えばアフリカ人の観衆が映画を見る時の接し方など)などが取り上げられているが、東洋文化圏に関してはほぼ無視されていると言って良いであろう。

私たち東洋文化圏に住む人間にとって、メディアにどう接するのかという観点の分析は重要であり必須であろう。マクルーハンの仕事を引き継ぐ仕事に要求されるのはそのような新しい観点ではなかろうか。