シンガポール通信ーマクルーハンの理論は古いのだろうか3

マクルーハンの「メディア論」がなかなか面白かったので、現在「グーテンベルグの銀河系」を読み始めたところである。これも大変面白い。読み終わったら感想を書こうと思うが、マクルーハンも何回か論じて来たので、一度この辺りで切り上げておこう。

そこで最後に、彼が電気技術に関して考えていた事、そしてそれをベースとして未来予測をした事が当たっているかどうかを少し考えてみよう。

前にも述べたが、マクルーハンが「メディア論」を出版したのは1964年であるから、まだインターネットは全く出現していない時代である。したがって、彼は全世界をつなぐコミュニケーションネットワークとしてのインターネットというものに関しては、まったくの前時代人であり知識は持っていない。

ところが彼は、全世界が小さな村のようになるという意味で「地球村」という未来予測を行い、それがある意味でネットワークの到来を予測しているというように理解されている。彼は本当にネットワーク時代の到来を予測しているのであろうか。

結論から言うと、彼はインターネットの到来を予測しているわけではない。彼の時代にあった最新のコミュニケーションメディアは電話である。しかしながら彼は電話というメディアとその背後にある電気技術の特徴を良く理解しており、それに基づいて全世界の人たちが瞬時に情報を共有できる時代の到来を予測していると言えるのである。

電気は、それが人間の感覚から言うと無限大の速度を持っており、ということは電気が距離というものを0にしてしまう、言い換えると距離の概念を破壊するという特徴を持っている。電気技術の特徴はいろいろ論じられて来たと思われるが、電気技術が持つこの本質的な特徴に気づき、それとその時代の最新のコミュニケーションメディアである電話から、コミュニケ—ションの将来を予測する事ができたという意味では、かれは未来を予言したと言う事はできるだろう。

彼の優れているのは、そのような直感的な考え方をベースにして、単に電話というメディアの将来の使われ方を予測してみるという方法論をとっていない事である。これは多くの識者の行いがちな手法であるが、その結果としては現在の延長としてのごくごく単純な未来しか予測できない。例えば、遠隔地に住んでいる祖父母と孫が親密に会話ができるなど、一時期はやった未来予測などがそうである。このようなやり方は、どうしても現在のメディアのあり方に引っ張られてしまいやすい。

それに対してマクルーハンは、電気技術の特徴を「電気技術が距離の概念を破壊する」という抽象レベルの思想にとどめておき、それをベースとして全世界があたかも1つの村のようになるというこれもまた抽象思考に基づき、「地球村」という概念であると同時に一般受けしそうなキーワードを考えだしている。一般受けしやすい言葉を使う辺りは、マクルーハンの大変うまいところであり、私達も見習わなければならないところであろう。

しかし実は、「地球村」の意味するところが具体的にはどのようなものなのかは、マクルーハンは明確には論じていない。そしてまた、地球村の将来がどのようになるかについても明確には論じていない。このような抽象論にとどめておくのもマクルーハンのうまいところであろう。私達が現在論じなければならないのはその事なのであるが、マクルーハン以降あまり有名なメディア論が現れていないのはなぜだろうか。

私自身も直感的ではあるが、ネットワーク社会がギリシャ時代の都市国家のあり方とよく似ている事に気づき、前著でその事に触れたことがある。ネットワーク社会を全世界の人々が常時つながり情報を交換し共有する社会だとすると、実はギリシャ時代の都市国家は(奴隷を除いて)すべての人が密に情報を交換し情報を共有している社会であった。さらにギリシャ都市国家ではすべての決定も人々の議論と合意の上でなされた。

その意味では現在のネットワーク社会はまだギリシャ時代の都市国家のレベルには達していないのである。そしてまたギリシャ時代の奴隷をロボットとおき直してみると、ギリシャ都市国家は、ネットワーク時代の未来の1つのあり方を予言しているようにも思えるがどうだろうか。

さらにもう1つ言うと、ギリシャ時代は偉大な哲学者の時代であったが、現在は哲学不在の時代である。偉大な哲学者の時代が再び来るのかどうか、これもまた現在の大きな課題の1つであろう。