シンガポール通信ーマクルーハンの理論は古いのだろうか2

前回書いたことについて、いくつか説明を加えておこう。口幅ったいようであるが、マクルーハンの主張と私の主張がかなり似ていることに気づかれるのではないだろうか。しかしながら、もし同じことを言っているのなら、私の主張は単にマクルーハンの理論の繰り返しに過ぎなくなる。

その意味では、マクルーハンの主張と私の主張の相違を明らかにする必要がある。また私の利点は、マクルーハンがネットワーク時代以前の人であるのに対し、私はその後のネットワーク時代の到来を見、そして現在おこっていることを私の主張をベースとして私なりに解釈し、さらに今後の社会の方向性を現時点で予測してみることができるということだろう。

そこで相違点について少し論じてみよう。まず文化とメディアの関係について、マクルーハンは「文字文化対非文字文化」という言い方をしている。ここでいう文字文化とは、アルファベットに代表される表音文字文化のことである。その意味ではこれは、「欧米文化対それ以外の文化」という言い方をすることもできる。

それに対して私は、「西洋二元論に基づいた文化対東洋一元論に基づいた文化」という言い方をしている。これは実はほぼ同じことを言っているのであるから、どちらがわかりやすいかもしくは正確かということになるだろう。正確さという意味からは、マクルーハンに軍配が上がるかもしれない。それは、欧米文化対それ以外の文化という言い方をすると、それ以外の文化にアフリカなどの文化を含めることができるからである。それに対して西洋二元論対東洋一元論という言い方をすると、欧米対東洋という少し狭い見方になるかもしれない。私自身も言いたかったのは、欧米文化対それ以外の国々の文化という意味であるから。

ところが他方でメディアとの関係性を明らかにするという観点からすると、「文字文化対非文字文化」という言い方は大変わかりにくい。文字文化を文字を通して視覚に訴える文化であるというところまではいいとしても、非文字文化に属するメディアの特徴を説明するのがなかなか大変になる。たとえば非文字文化の代表としてあげてあるテレビを、マクルーハンは触覚に訴えるメディアであると説明している。これなどは、どう考えても直感的にわかる説明とは言えないだろう。

それに対して私の「二元論対一元論」という考え方においては、二元論が理性と感情を分離し理性に優位性を認めているのに対して一元論は理性と感情を分離したものとはみなしていない。その意味でこれは、理性に基づくか感情に基づくかという分類の仕方になる。そうするとメディアの分類が、理性に基づくメディアか感情に基づくメディアか、もしくは理性に訴えるメディアか感情に訴えるメディアかということになり、マクルーハンの説明よりはずっと直感的にわかりやすくなるのではないだろうか。

もう1つの観点は、このような新しいメディアの時代の始まりをどの時点におくかである。マクルーハンはそれを、電気技術の発明と普及がそのような大きな動きを引き起こしたとしている。電気技術の普及は19世紀後半である。それに対して私は、感情に訴え感情を伝えることのできるメディアとしての映画と電話の発明(これも19世紀後半に生じた)が、現在のメディアの大きな動きの発端となっていると考えている。そしてインターネットとそれに伴う各種の技術がその動きを加速していると考えている。

実はこれも、同様のことを別の見方で主張しているということができる。そして再びわかりやすさという観点からすると、マクルーハンの言い方は私の言い方に比較してわかりにくいのではないだろうか。なぜ電気技術が新しい時代の幕開けとなったかという理由について、マクルーハンは2つの理由を挙げている。1つの理由としては、これまでの機械技術が人間の身体の各部分の外化・延長であったのに対し(例えば車は足の延長)、電気技術が中枢神経の外化・延長であるということが指摘されている。もう1つの理由としては、電気技術が距離という概念を壊し、全世界で同時発生的に物事を生じさせることができるということが指摘されている。

特に1番目の理由は理解しにくいであろう。これは、電気技術に基づいたコンピュータの存在を念頭において、始めて理解出来ることなのではあるまいか。その辺りをあまりマクルーハンは明確には論じていないようである。それに対して2番目の理由については、ある意味でマクルーハンの予言者としての能力を示しているということができる。

(さらに続く)