シンガポール通信ーマクルーハンの理論は古いのだろうか

さてマクルーハンのメディア論のうち「メディアはメッセージである」や「ホットメディア・クールメディア」に関しては簡単に論じたので、いよいよ現時点でマクルーハンをどう評価すべきかについて考えてみよう。

マクルーハンのメディアに関する理論・考察を解説したり評価・批判したりしている著作や論文は、それこそ五万とあるだろう。それらに部分的にせよ目を通しもしないでマクルーハンの理論を批判・評価するとは何事かと、マクルーハンの専門家からはお叱りをうけそうである。

しかし私自身は彼の「メディア論」をざっと読んでみて、細部は別にして彼が言いたいことはある程度わかった気がする。それはここ2年ほど私が考えて来たことと、ある意味で共通する部分が多いと感じ同感するところがあるからである。

これもまた、「メディア論」を流し読みしただけでなにがわかるのかとお叱りを受けそうである。私自身は彼の他の著作を読んでいる訳ではないし、上にも述べたようにマクルーハンを論じている著作や論文に目を通した訳ではない。あくまで私自身の直感に基づくものである。

まあしかし直感と言うのはばかにしたものではない。私が私の前著に書いたことやそれを延長して現在考えていることは、基本的には15年ほど前にATRのメディア関係の研究所にいた際に直感的に感じていたことを延長したものである。その意味では私は自分の当時の直感は間違っていなかったと確信している。

さてそれでは結局のところ、マクルーハンが「メディア論」で言いたかったことは何なのだろう。私は、それは以下のようなことであろうと思っている。

「これまでの技術やメディアは(彼はメディアと技術をほぼ同義語のように使っているようである)、欧米の文字文化もっと正確に言うとアルファベットという表音文字をベースとした文化にもとづいて進歩して来た。そのとき最も重要な役割を果たしたのは、グーテンベルグによる印刷技術の発明である。少なくとも蒸気機関の発明やその延長としての機械の時代まではそうである。ところが19世紀後半から普及して来た電気技術は、それまでの機械技術とはまったく異なる性質を持っており、いわば文字文化と反するものであって、欧米以外のアジアやアフリカの文化言い換えると非文字文化によりマッチした性格を持っている。そのため電気技術はこれまでの文字をベースとして発展して来た欧米の文化さらには生活様式に大きな変化を与える可能性がある。」

ここで誰もが疑問を持つのは、なぜ電気技術がそれまでの機械技術とまったく異なる性質を持つのかということであり、また機械技術がなぜ欧米の文字文化と関わりが深く、電気技術はアジアやアフリカの文化と関わりが深いのかということであろう。実はマクルーハンの本を読んでも、そのことに関する明快な説明はない。文字文化が人間の感覚でいうと視覚と関係が深く、かたや非文字文化が人間の感覚でいうと触覚と関係が深いなどという説明があるが、なんともわかりにくい。これは論理的な説明とは言えないのであり、どうもマクルーハンは論理の人というより直感の人だったのだと思われる。

ただ私自身は直感的に、マクルーハンの言っていることは正しいと感じる。私自身も、現在のメディアの位置付け・意味を人間の長い歴史との関わりでとらえたいと考えて来て、ある意味でマクルーハンと似た考え方をしていたからである。マクルーハンの理論と私の考えを比較しようというのは少し出過ぎたまねかもしれないが、私自身がメディアの発展と現在の状況の関係について持っている考えをまとめてみると以下のようになる。

「現在の欧米の文化は、彼等の基本的な思想である二元論をベースとして築き上げられている。二元論の始まりは、文字の発明までさかのぼる。文字の発明が意識につながり、そして人間の理性を作り上げて行った。そしてプラトンが人間の精神の働きをロゴス(理性)とパトス(感情)の2つに分け、ロゴスをパトスに対して優れているものと宣言したことにより、二元論は明確に定義された。ただそれが一般の人々に浸透するのは、印刷技術の発明により印刷された書物が人々の間に普及し、それに伴い論理的な考え方が人々の間に広まったことによる。したがって印刷術の発明と共に、ロゴスとパトスを分けロゴスこそが人間の精神に求められた働きであるという二元論が、西欧の考え方の基本となったのである。ところが19世紀末の電話と映画の発明は、それまでおさえられていた感情の働きが再び人間の精神の働きの重要な側面として、人々の考え方・行動に影響を及ぼし始めるという動きをおこした。現在のネットワーク時代に生じている現象は、その延長であると共に、その動きが加速された現象であると理解出来る。これはロゴスとパトスの最接近、もしくは欧米のアジア化とでも呼べる現象である。」

(続く)