シンガポール通信ーホットメディアとクールメディア2

前回の続きとして議論を進める前に、マクルーハンがホットメディア・クールメディアとしてどのようなものを考えていたかを列挙してみよう。

ホットメディア:ラジオ、書籍、映画など
クールメディア:テレビ、電話、談話、漫画など

さてその上で、前回述べた「ホットメディアは人との深い関わりを要求しないメディア」であり、「クールメディアは人との深い関わりを要求するメディア」であるという意味について考えてみよう。「関わりを要求する」とはどういう意味だろうか。1つの考え方は、メディアと人とのインタラクションがあるかないかという観点から分類する方法である。すなわちインタラクティブメディアかどうかという分類法である。

このような分類に基づくと、コミュニケーション型のメディアはインタラクティブメディアでありすなわちクールメディアであり、放送型もしくは情報の流れが一方向的なメディアはインタラクティブではないメディアすなわちホットメディアという事になる。

確かに上記の分類を見ると、ある程度までこの分類法にそっている事がわかる。電話・談話などのインタラクティブ型もしくはコミュニケーション型のメディアはクールメディアになっており、一方ホットメディアに分類されているものはすべて情報の流れが一方向的なメディアである。

ここで注意しなければならないのは、テレビという情報の流れが一方向的なメディアがクールメディアに分類されている事である。テレビがなぜクールメディアに分類されているかは、実はマクルーハンの主張に耳を傾ける際には重要なキーワードとなると思われる。前回も書いたが、この本では何度もテレビと映画の比較が出てくる。そして種々の例を用いながら、映画がホットメディアでテレビがクールメディアである事が主張される。

ここで注意しなければならないのは、この本が書かれた1960年代前半はまだまだメディアの中でテレビが最も新しいメディアであり、それが今後社会にどのような影響を与えるかが盛んに議論された時代である。ちなみに大宅壮一のテレビが「一億総白痴化」を生み出すという流行語は1957年であるから、マクルーハンとほぼ同じ時期と考えていいだろう。

つまり、テレビという当時は最新のメディアの位置付けに関する議論が盛んだった頃であり、したがってマクルーハンのこの本も、テレビの位置付けを明確にする事が1つの大きな目的であったともいえよう。したがって、どうもマクルーハンは意識的にテレビを映画と比較して論じる事により、テレビの特殊性をアピールしたかったのではあるまいか。

もう1つの「関わり」の解釈として、人がメディアと心理的にどの程度深く関われるかという解釈の仕方がある。つまり比較的気軽に短時間つきあう事のできるメディアか、そのメディアとの関わりに人が没入するようなメディアかという分類の仕方である。いいかえれば、没入型のメディアか非没入型のメディアという分類である。

この場合は明らかに映画は没入型のメディアであり、それに対してレテビは非没入型のメディアであろう。一方で他のメディア、電話や書籍は少し事情が異なる。たとえば電話での会話は、それがビジネス会話であれば非没入型であるし、友達との長電話に夢中になっている時は没入型であろう。また書籍の場合は、気軽な雑誌などを読んでいる場合は非没入型であるが、小説などを読んでいる場合は小説の世界に没入するであろうから没入型メディアとなる。

こうなると「メディアはメッセージである」というマクルーハンの最初の定義そのものにも影響を及ぼしてくる。つまり例えば、電話はそれがビジネスに使われるか雑談に使われるかによってメディアの性格が異なってくるのである。このことは、単純にメディアはメッセージであるとは言えなくなってくる事を意味している。

だんだん話が込み入って来たけれども、整理すると以下のようになる。つまり人の関わりを要求するメディアかそうではないかというのは、実はインタラクティブメディアか否かという側面と没入型メディアか否かという側面の2つがあるのである。どうもマクルーハンはこのあたりは明確には意識していないため、たびたび混同がおこっているようである。

そしてもう1つは、やはりマクルーハンがこの本を書いた1960年当時と現在とではメディアを取り巻く状況がかなり異なっている事もあげられよう。一例をあげると、当時はまだまだ電話はビジネスのためのメディアであり、それが雑談のためのいいかえるとエンタテインメントのためのメディアとして使われるようになるだろうとはマクルーハンも予測もしなかったであろう。