シンガポール通信ーホットメディアとクールメディア

マクルーハンの言う「メディアはメッセージである」に関連してまだまだ言いたい事はあるのだけれども、とりあえずこれはこれくらいにしておこう。そして、彼のよく知られている言葉である「ホットメディア」と「クールメディア」について少し考えてみよう。また必要に応じて、「メディアはメッセージである」に関する考察に戻る事としよう。

この言葉がよく知られているのは、「ホット」「クール」という若者の使う言葉をメディアの分類に使ったためであろう。いかにもマクルーハンらしいといえばマクルーハンらしい。どうもこの命名法そのものが、ホットメディア・クールメディアにに関する大きな関心と議論を引き起こしているようである。

それに乗せられてしまうと、いわばマクルーハンの思うつぼである。しかし冷静に考えてみれば、それは単なるメディアを2種類に分類したという分類法に過ぎない。ここは彼に乗せられないで少し冷静に考える必要がある。

第一、彼が序文でも書いているように、かっては若者達が「ホット」という言葉で意味していたものを最近は彼等は「クール」という呼び方をしているではないか。つまり、ホット・クールという言葉そのものによって私達が持つところの感覚に、あまり左右されない方が良いのである。彼は単にメディアを2つに分類しようとしただけであり、その2つのメディアをホット・クールと呼んでいるのは、いわば単に名前に過ぎないというように理解しておいた方が良い。

さて、ホットとクールの分類におけるそれぞれの意味は、通常以下のように解釈されている。ホットというのは「メディアに含まれる情報の精細度が高い」事を意味しており、クールというのは「メディアに含まれる情報の精細度が低い」事を意味している。これだけ取り出すと極めて単純な事を言っているように聞こえる。言い換えると、情報がぎっしり詰め込まれているメディアはホットであり、あまり情報がないメディアはクールなのである。

しかしながら、実はそれほど単純なことを言っているのではない。これは情報量が多い・少ないということを言っているのではなくて、情報の密度の高さ・低さを言っているのである。この辺りで既に曖昧になっている事に注意してもらいたい。情報量の多少は情報理論から計算する事ができるだろうが、情報の密度の高低はどう評価すれば良いのか。

それに関しては実はマクルーハンは何も述べていない。彼が何度も繰り返し述べているのは、テレビのブラウン管に映し出された粗いモザイク上の画像と映画のスクリーン上の極めて高品質の画像の比較である。まあそれはその通りであるが、注意しなければならないのは、この本が書かれたのは1960年代、まだ現在のようなハイビジョン・大画面などなかった時代である。その時点では確かに、テレビの映像と映画の映像の間には歴然とした差があったのだけれども、現在は事情が異なっているといえるだろう。

もっともこの点に関して言うと、前回も指摘したように、現時点でもテレビの番組内容いわゆるテレビというメディアのコンテンツはその当時と大差はない。テレビ技術が進歩しても、テレビというメディアの位置付けは当時と現在では異なっていないのである。このことは、まさに彼の言葉である「メディアはメッセージである」の正しさを裏付けており、マクルーハンの慧眼をほめるべきところである。

さてところが、上記の情報の精細度の高さ・低さに応じて次のようなホットメディア・クールメディアに関して別の定義が現れる。つまり、ホットメディアは情報の精細度が高いため受け手の参加度が低いメディアであり、クールメディアは情報の精細度が高いため、それを補う意味で受け手の参加度が高いメディアであるというように定義されている。

これはまた議論を複雑にしている定義である。このような定義をするためには、受け手の参加度とは何かを厳密に定義すべきなのであるが、実はマクルーハンはそのような厳密な定義はしておらず、そこは読者の解釈にゆだねられている。

「ホットメディア」「クールメディア」という刺激的な名前のメデイアの分類をしておきながら、実はその厳密な定義はしていない。なんだかずるくはないだろうか。このような曖昧な定義にすることによって、読み手によって異なる解釈を生み出すこととなり、その結果として大きな関心を呼び、大きな議論がわき起こる。実はこれこそがマクルーハンの狙った事ではないかという気もしてくる。

(続く)