シンガポール通信ー「メディアはメッセージである」2

マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉について、引き続き考えてみよう。前回は、この言葉はメディアが持つ特質そのものがメディアが運ぶ情報・コンテンツに影響・制限を与え、結果として中に含まれるコンテンツとは独立して、メディア自身が人間との関係において独自の特徴・意味を持つという意味ではないかと述べた。

もう少しこの点について考えてみよう。例えば映画とテレビはいずれも映像を扱うメディアである。したがって表面的に考えると、映画とテレビはいずれも同じジャンルのメディアとして考えられるように見える。

ところがマクルーハンは映画を「ホットメディア」に分類し、テレビを「クールメディア」に分類している。このホット・クールというメディアの分類もマクルーハン独特のものであり、これについても多くの議論がなされている。「ホットメディア」「クールメディア」に関しては、私もいろいろと意見があるので、これはこれで別に論じる事にしよう。

いずれにしても重要なのは、映画とテレビが共に映像を扱うという表面的な意味では似たメディアであっても、実際にはまったく別のメディアとして扱われているということである。これは前回も書いたが、映画とテレビがそのメディアとしての使われ方がまったく異なる、言い換えると映画は個人が長時間没入するメディアとして、テレビは家族・友人などと共有しながら短時間楽しむメディアとして使われて来た、という事に対応している。

それでは、テレビが高画質化し大画面化すれば、テレビと映画の境界は曖昧になるのだろうかという疑問が出てくる。それに対するマクルーハンの答えは「Yes」である。しかしこれは、その可能性を認めているという事であって、テレビと映画が同一のものになると断言しているわけではないと私は理解している。

例えば、ハイビジョンが出て来たからさらには大画面のテレビが現れたから、テレビ番組の内容は変ったであろうか。現在のところは「NO」である。やはり従来と同じように、テレビ番組として流されているのはバラエティ番組が中心であり、それは短時間の気楽に楽しむエンタテインメントである。これはテレビというメディアが当初持っていた性格をそのまま引き継いでいるからであって、現在のハイビジョンや大画面化程度の技術革新ではその性格を変える事が難しい事を示している。

実はこの事は重要な事である。2年ほど前から3Dテレビを各社が競って売り出し、一時は次世代テレビは3Dテレビで決まりであるかのように、しかもその分野では日本メーカーが世界をリードしているかのように、各種メデイアがニュースとして取り上げ話題になったことがある。

その際このブログで書いたように、私はこの動きに否定的な見方をしていた。それは、テレビというものが短時間の気軽な娯楽に向いたメディアであり、わざわざ専用の眼鏡をかけてまで見るメディアではないという理由による。これは、私はごく当然の事実だととらえており、そのうちブームはすぐ沈静化する主張したのであるが、あまりそのような意見は当時は見られなかった。

ところが事実そのうち3Dテレビの話題を聞く事は少なくなり、とうとう今日(2012年3月20日)のニュースによれば、日立は3Dテレビの開発を中止するという事である。これなどはまさに、テレビというメディアの持つ性格を各メーカーとも理解していなかったというより仕方がない。

もちろんメディアの歴史の中で、あるメディアが他のメディアとの関係や社会情勢の変化によりその基本的な性格を変えるという事は生じうる事である。その有名な例は、最初放送メディアとして出発した電話が、無線通信技術とのすみわけにより個人間のコミュニケーションメディアに性格を変えたというのがある。

特に現在のように、新聞・雑誌・単行本・テレビ・ラジオ・映画・メールなどの種々のメディアが競い合っている状況では、またさらにソーシアル・ネットワークのような新しいメディが生じつつあるような状況では、従来のメディアが他のメディアとの関係や社会情勢の変化に応じて性格を変えて行くという事は十分生じうる事である。

しかしそのようなメディアの性格の変化は、これまでの例を見ても他のメディアとの関係とか社会情勢の変化によるところが大きいのではあるまいか。特定のメディア内部の技術革新がメディアの性格を変えるのは、そう簡単ではないような気がする。