シンガポール通信ー「メディアはメッセージである」

マクルーハンの有名な言葉の1つに、「メディアはメッセージである」というのがある。これもさんざん議論された言葉だろうから、いまさらこれについてコメントを述べるのもどうかという気もするけれども、私なりの意見を述べておきたい。

私は、マクルーハンの言葉の中では、これはかなりわかりやすい言葉の部類に入ると考えている。メディアは、日本語では媒体などと訳されている。つまりメディアとは情報を運ぶ入れ物であるということになる。そうすると、その入れ物に入れられる内容、すなわちコンテンツこそが大切であるということになりやすい。

事実マクルーハン以前には、メディアはそれが運ぶ情報もしくはコンテンツと一体となって初めて意味を持つものと考えられていた。すなわちメディアは単なる入れ物であり、中性的なものであり、それ自身は意味を持たないものであるというのが、それまでの見方であったといえよう。

それに対してマクルーハンが言いたいのは、メディアはそれ自身が独自の特質を備えており、中に含まれるコンテンツに関しても条件を課せることができるということである。つまり、特定のメディアにはそれにふさわしいコンテンツとふさわしくないコンテンツがあるということになる。もしくは特定のメディアはそれが含むコンテンツに制限をかけたり変質させてしまう可能性があるという事である。

これは、言われてしまえば当然の事であろう。音声によるメッセージを伝えるラジオにとって、映像コンテンツを扱う事は困難である。例えば絵画についてラジオでアナウンサーが解説してみてもなかなか伝わらないであろう。結局のところ音声によるニュースや音楽などがラジオに適しているという事になる。

ラジオは最もわかりやすい例であるが、例えば同じ映像を扱う映画とテレビを比較してみよう。いずれも動画によって人々に情報を伝えるメディアである。しかしながら、メディア自身のハードウェア的な制約によって、もしくは社会的な位置付けによって、それらのメディアが伝達する映像情報はかなり異なってくる。

映画は基本的には、人々を数時間の間物語の世界やSFの世界などの異なる世界へ誘うためのメディアである。そのために暗い空間を設定し、大きなスクリーンとそこに映し出される高精細の映像が用意される。さらには高品質のサウンドを提供する音響装置が設置され、これらがあいまって、人々を異空間に誘いやすい設定がされている。そして基本的には人々は一人一人がスクリーンと向き合う事になり、スクリーンに映像が映っている間はたとえ友人や恋人と一緒に鑑賞していても沈黙が要求される。

そうするとどうしても、コンテンツとしては練り込んだストーリーが必要であり、さらにはそれを的確に演じるスター達が映像に登場する事が求められる。そしてその結果として、人々は映画の上映される数時間の間はスクリーン上の映像の世界に没頭するのである。

一方テレビは、基本的には短時間の気晴らしのためのメディアであり、また家庭の居間などで家族等で一緒に楽しむ事を原則としている。当然家族が談話しながらテレビを見るという事が通常の使い方になる。また、基本的には途中で席を立ったりすることもあろうし、チャンネルを変えてしまう事もあろう。

そのようなテレビに要求されるのは、短時間でもまた途中からでも楽しめる番組ということになる。したがって、本来テレビにはバラエィ番組のような番組が適しているのである。NHK大河ドラマのような番組もあるにせよ、1時間という時間に分割しそれが毎週繰り替えされるという形態そのものが、映画ほどには深く視聴者を引きつけない事を前提としている。

さらにはテレビの映像そのものの性質も関連しているであろう。テレビの画像は映画に比較すれば小さいし、画像の精度も低精細である。そのため、映画に比較すると視聴者を引き込む程度が低く、これらのことがあいまって、途中で席を立ったりチャンネルを変える事を容易にしている。

そうすると映画をテレビのコンテンツとして放映する事があるが、あれはどうなのかという疑問が出るだろう。しかしこれも常識になっているように、映画を通常は最大放映時間2時間というテレビのコンテンツに合わせるため再編集している。さらには、途中にコマーシャルが入るため放映が中断される。このことは、映画コンテンツといえど、テレビで放映される場合には変質され、テレビコンテンツになっているといえるのである。

また別の疑問も出るだろう。テレビの映像はハイビジョンになり高精細化している。今後はスーパーハイビジョンなどのさらに高精細な映像が現れるだろう。さらに画面の大きさに関して言えば、現在大画面化が急速に進んでおり、大画面で高精細の映像を見られるようになりつつある。そうするとテレビが映画に近づくのではないだろうか、テレビと映画のメディアとしての境界が曖昧になるのではないだろうかという疑問である。

(続く)