シンガポール通信ーマクルーハン「メディア論」を読み始める

メディアについて語るとき、マクルーハンについて語ることは避けられないだろう。なによりも「メディアはメッセージである」「ホットメディア」「クールメディア」等の斬新な言葉を創りだし、一時期はメディアと未来学を語る寵児としてもてはやされた時代があった。

それに対して、最近あまりマクルーハンの名前を聞かないのではないだろうか。なぜだろう。もうマクルーハンは古くさいとされているのだろうか。確かに、マクルーハンの活躍したのは、1960年代とすでに半世紀前になっている。まだネットワークのネの字もなかった時代である。当然彼もネットワークについて語っている訳ではないだろう。ネットワーク時代の現在においては、古いと言われても無理もないのかもしれない。

しかしそれでは、現代において彼に代わってメディアを語り、メディアの未来を語っている人がいるのだろうか。私もこの方面の知識がある訳ではないけれども、どうもそうとも思えない。それとも、社会や生活が急激に変わりつつある現在において、未来論を語ることは困難なのだろうか。(これに関しては、このブログでも2011年7月6日に「未来学について考える」という小文を書いたので、そちらも参照してほしい。)

もしマクルーハンに代わる人がまだ現れていないのであれば、現時点でマクルーハンを読んでみることは意味のあることであろう。というわけで、彼の「メディア論」を読み始めた。難解であるという噂も聞いているので、ある意味おそるおそる読み始めたと言うところである。

したがって、現時点で書けることは読み始めての単なる最初の感想といったところなので、読み進むにつれて変わってくることがある可能性が大きいことをあらかじめお断りしておきたい。

さて、そのような前提で読んでいると、どうも彼が言いたいことは、西洋の文字社会が電子メディアとどのように関わり、そしてどのように変質しつつあるかと言うことではないだろうかという気がする。

ここでいう文字とは、アルファベットに代表される表音文字のことである。表音文字が現れ、それによって人間の感覚・思想などが文字で表現されることにより、西洋が文字優先の文化を育んで来たと言うのが西洋の歴史だと彼は言いたいのであろう。そしてそれが電子メディアの出現により大きな影響を受けているというのが、彼が全体として伝えたいメッセージではあるまいか。

実は私は、西洋哲学と東洋哲学の比較、そしてその結果生じた西洋文化東洋文化の比較に昨年から興味を持っており、ギリシャソクラテスプラトンから始まる西洋哲学や孔子老子荘子などを起源とする東洋哲学をかじったりして来た。

その結果、二元論に代表される西洋哲学と一元論に代表される東洋哲学との根本的な違いは、どうもプラトンの説く理性と感情の分離に端を発しており、そしてそれが生じたその根源は西洋における文字特に表音文字の出現によるのではないだろうかという意見を持つようになって来た。

そして、西洋二元論の根底となる理性と感情の分離が、最近の電子メディアの出現によりあやふやになりつつあるのが現在おこっていることではないだろうかと思うようになった。とすると、口はばったいようであるが、私の考えて来たこととマクルーハンが主張していることにはかなり共通点があるのではないだろうか。

とすると少し元気が出てきて、読み続けようと言う気になる。彼の言う「メディアはメッセージである」「ホットメディア」「クールメディア」などという言葉の意味を私なりに解釈することができるかもしれない。

そして何よりも彼が死去してから30年以上たった現在、ネットワークとその上でのメディアが全盛の今日において、彼の主張を再び評価し直したり幾分かは批評を加えることもできるかもしれない。

という訳で、今回はマクルーハンの「メディア論」を読み始めたという報告にとどめておきたい。そして読み進めるにつれて、何度かこのブログで感想などを報告して行きたいと考えている。

(続く)