シンガポール通信ー「僕はビートルズ」から見たネット時代の光と陰

コミック誌「モーニング」に掲載されて来た「僕はビートルズ」が終了したが、そのストーリーの終了の仕方が少し唐突であることを前回述べた。私の勘ぐるところによると、ビートルズのファンからの苦情が、編集部もしくはかわぐちかいじ氏に殺到したのではあるまいか。

そのため当初のストーリーを変更して、ビートルズコピーバンドであるファビフォーがビートルズデビュー直前の時代にタイムスリップした事が、結局はビートルズの活動に影響を及ぼす事がなかったというストーリー設定にしたのではないだろうか。

具体的には、ビートルズは予定通りデビューして大活躍し、片やファブフォーは解散し、ファブフォーの4人組は音楽とは関係ない活動を続けながら人生を送るというストーリーが、コミックの最後の1、2回で急展開し、「僕はビートルズ」は何とも慌ただしい形で終結する事になる。

このことは、コミックというある意味で芸術作品に含まれるジャンルの作品のストーリーのあり方や、それと共にネット時代のあり方に関し考えさせるところが多いのではないだろうか。

まずストーリーから考えてみよう。この作品のストーリーは、いわゆるタイムスリップ作品(もしくはタイムマシン作品)というジャンルに入るものである。タイムスリップして過去に戻った人間が過去の歴史に関わる事により、それがそれ以降の歴史にどのような影響を与えるかということを描くのが、タイムスリップ作品の特徴であり醍醐味である。

ビートルズという天才バンドに、通常ならコピーバンドは対抗すべくもないというのが普通の考え方である。しかしながら、コピーバンドビートルズデビュー直前の時代にタイムスリップしたという状況設定なら、それがビートルズに影響を与えいわば音楽の歴史を変えてしまえるのではないかと考える事ができる。

このような仮定の下に虚構としてのストーリー展開を行う事は、いわばコミック作家の腕の見せ所ではあるまいか。それが結局の所何も起こらなかったというのでは、コミック作家としてはいわば負けを認める事になるのではないか。しかもそれが、本来のストーリーではなくて、読者からの苦情のせいでストーリー展開を変更したというのであればなおさらであろう。

読者の苦情が殺到したため、雑誌の売り上げへの影響を考慮したという事は予想されるが、ビートルズの偉大さや神格性を破るというタブーへの挑戦が本来の狙いであったとすれば、そこは意地を見せて当初予定通りのストーリー展開を続けてもらいたかったというのは、私だけの意見ではあるまい。コミック作品という芸術の持つ限界であると言ってしまえばそれまでなのかもしれないが。

と同時にネット上の意見、それもいわば常識を持った人たちの常識的な意見が、上のようなタブーへの挑戦に影響を与えるという事は、ネット時代の社会のあり方にある種の問題点を投げかけているのではないだろうか。

ネット上には、ポルノサイトや2チャンネルのようないわば言いたい放題の掲示板などが存在している。そしてそれらに対する非難の意見は多いのであるが、それでもそれらが存在し続けているというのは、ある意味で社会の健全性を示しているといえよう。

言論の自由という大義名分を振りかざすまでもなく、皆が自由に情報発信し、それをどう受け取るかは受取手の自由にまかされている、そしてそのような状況の中から世論や社会の方向性が決まって行くというのが、ネット時代の社会のあり方であろう。

そのような意味で、私は日本は常識・良識という観点から見て大変健全な国であると感じている。コンビニにポルノ雑誌がおいてある、そしてそれに対して教育関係者などからの苦情もあると思う。しかしながら、子供達がポルノ雑誌コーナーに群がってポルノ雑誌を見ているという風景は見た事がない。子供達の興味はむしろ彼等の世代向けのコミックなどにあるのであろう。それでいいのである。

ところがそのような自由にもとづいて各種の活動が行われるべき社会において、ビートルズのファンといういわば常識人からの、「ビートルズを冒涜するな」というこれも常識的な意見がコミックのストーリーといういわば芸術作品に対して影響を与えているという事実(と私は思うのだけれども)にちょっと首を傾げざるを得ないのである。

今までの多数の常識人たちの非難は、ある意味で非常識的な意見などへ向けられて、ブログ炎上などの事態が生じていた。これはこれで良識ある行動であろう。ところが、芸術作品というタブーへの挑戦を目的とするものに対しても、同様の感覚で非難が向けられていないだろうか。この場合これは良識ある行動と呼べるだろうか。これはネット時代の1つの問題点であるような気がしてならない。