シンガポール通信ーかわぐちかいじ「僕はビートルズ」3

前回まで書いて来た事をまとめてみると、どうしてこの作品の結末が腑に落ちないことを私が(そして多くの読者も同様にと私は思うが)感じるかという事が明らかになる。つまりこういうことではあるまいか。

ビートルズの大ファンである4人組が、ビートルズがデビューする直前の日本にタイムスリップして、「ファブフォー」というビートルズナンバーを演奏するバンドを結成するという時点で、ファブフォーの4人はどのような考え方を持っていたのだろうか。

ビートルズが大好きで彼等を崇拝している4人組が、ビートルズのデビュー前に彼等の曲を演奏しそれを公開するという事がどのような影響をもつかは、当然ある程度予想できたであろう。

それは、ビートルズという天才バンドとそれを取り巻く世界の歴史が変る可能性がある事を意味している。その1つの可能性は、ビートルズが作り発表すべき曲をファブフォーが先行して発表してしまう事により、ビートルズの4人の創造性がいわば封じ込められてしまい、ビートルズはデビューせずに終わり、ファブフォーがいわばビートルズの代わりを演ずることになるというシナリオである。

その際に予想されるのは、ビートルズのような天才と創造性を持たないファブフォーが、どこまでビートルズの代わりを演じる事ができるかであろう。もしかしたらビートルズのような人気は出ないかもしれない。もしくは大人気になるのであるが、自分たちのオリジナルではない曲を演奏する彼等が、その人気の重圧に耐えられるのかどう切り抜けて行くのかという展開であろう。

もう1つは、ビートルズの天才と創造性はファブフォーの出現でつぶされてしまう事はなく、彼等はファブフォーが演奏する本来のビートルズのナンバーとは異なる曲を作り出して行く事になるという展開である。すなわち、ファブフォーの出現がビートルズを私達が現実に知っているビートルズではなく、新しいビートルズに変えていくという展開である。

いずれの展開も、これが虚構である事を知っている読者としては、エンタテインメントとして楽しめる事は間違いない。もちろん、ビートルズのファンの中にはそれを嫌う人たちがいるだろう。ビートルズの天才は神聖にして犯すべきではないと信じている人たちもいるだろうから、そのような人たちにとって、ビートルズコピーバンドが本家本元のビートルズに影響を与えるとは許しがたいと考えることは、当然予想される。特に前者のようなストーリー展開になる場合はよけいそうであろう。

実際、ネットを見るとこの作品に対する非難の意見を多く見る事ができる。この作品を見てかわぐちかいじが嫌いになったという人もいる。その気持ちはよくわかる。しかし、もう一度いうけれどもこれは虚構である。仮想の舞台構成の上で、神聖で犯さざるべきビートルズの天才と創造性といういわばタブーに挑戦することは許されることであるまいか。

そして芸術の(コミックも立派な芸術だと私は思うけれども)1つの使命は、世の中で当然と考えられている事実、そしてタブーに挑戦することではあるまいか。タブーへの挑戦が、さらに人々の創造性を刺激し、新しい芸術・文化を生み出して来たのではないだろうか。

この作品はそのような意味で、本来はビートルズの神聖性・不可侵性というタブーへの挑戦というべき作品であったのではないだろうか。それが中途半端な終わり方、いかにもとってつけたような大団円に至るという点が、私達にとって腑に落ちないと感じることになるのではないだろうか。

私の邪推するところでは、たぶん以下のような事が起こったのではないかと思う。本来はこのコミック作品は、上に書いたようにビートルズの神聖性・不可侵性というタブーへの挑戦であったはずである。しかしながら、世の中に多数存在するビートルズの大ファンから、出版社へそしてかわぐちかいじ氏へ苦情が殺到したのではあるまいか。その結果として、雑誌の売り上げを第一とする出版社がかわぐちかいじ氏に圧力をかけるか、もしくはかわぐちかいじ氏自らの意志かもしれないが、本来のストーリーが変更され、結果としては歴史は変らなかったというフィナーレを作り出したのではあるまいか。

このことはコミック作品という芸術作品の限界を示していると同時に、現在のネット社会のある種の限界も示しているのではないだろうか。この点に関してはまた別に書きたい。