シンガポール通信ー佐藤尚之「明日のコミュニケーション」

前回は「明日のメディア」という本を紹介したので、今回は「明日のコミュニケーション」を読んだ感想を書きたい。「明日のメディア」もそうだし「明日のコミュニケーション」もそうだけれども、メディア・コミュニケーションに大変関心を持っている私としては、これらの言葉に「明日の」という魅力的なキーワードがついていると、つい読みたくなって買ってしまう。

多分そのような人は多いだろう。スマートフォンタブレットPCなどの新しいメディアや、ツイッターフェースブックのような新しいコミュニケーションメディアが現れ人々の間に急速に広まって行くと、それはどうしてだろうとかその流れの次ぎにくる次世代のメディアやコミュニケーションの方式はどのようなものだろうと人々は考えるのだろう。そして、そのような疑問に、このようなタイトルを掲げた本は応えてくれそうな気がするからである。

しかしながらそのような期待を持ってこの本を読むと、残念ながら十分期待に応えてくれるとはいえない。この本に書かれているのことが、結局のところ現在のツイッタ—やフェースブックなどのソーシアルネットワーク(SN)メディアが、従来のコミュニケーションにはなかった事を実現している事を賞賛するにとどまっていると、私には思えるからである。

SNで起こっている事は、これまでのメールによる1対1のコミュニケーションとは異なり、コミュニティの間の緩やかなつながりである事は、この本で何度も指摘されている。しかし、これは既にこれまでのSNに関する本で指摘されて来た事ではあるまいか。

著者は広告業界に長年籍を置いて来た人なので、企業広告の観点からそれを見てしまうのは無理はない。そしてそのような観点から見て、これまで企業から一般の人々に対して新聞やテレビを使って一方向的に流された広告メッセージに対して、SNを用いた広告宣伝戦略が全く異なることになる事を指摘しているのは、ある意味でうなづける。

そしてその広告宣伝戦略が口コミを大きくしたような形(これを著者はハイパー口コミと呼んでいる)になるということも同意できる。しかしながら、それはもともとSNがコミュニティの間の緩やかなコミュニケーションを実現するメディアという性格を持っているからであって、何も目新しい事ではない。

著者は、SNを使った広告宣伝がまず行うべき事は人々の注意を引く事ではなくて、人々の共感を得る事であると述べている。それはその通りなのであるが、これはSNでのコミュニケーションのやり方が、コミュニティの他の人々の共感を得る事がベースとなっているからであって、別に著者が発見した事実ではない。

もっというと、本来コミュニケーションとは「自分の経験を相手に伝えそれを共有することによって共感を呼ぶ」ことにあるわけである。ところがこれまでは、通信理論でいわれる「情報を相手に伝えて相手の注意を喚起する事」にあると一般に考えられて来たのではあるまいか。これのコミュニケーションの定義はビジネスなどの場面では確かにその通りである。しかしながら私達の日常生活では、このような意味でのコミュニケーションより、「経験を共有し共感を持つ」というコミュニケーションの方が一般的なのである。

そういう観点から見ると、広告業界に籍を置いている著者が、コミュニケーションを企業から消費者へ企業情報を伝達し消費者の注意を引くことであると理解して来たのは当然かもしれない。そしてそのような観点からSNを見た時に、企業にとって新しいコミュニケーションの手法を提供してくれるメディアであると賞賛したくなるのは無理もない事かもしれない。

その意味では、この本の内容は企業サイドからSNをどのように利用すべきかという物の見方をしたものである。「その通りであって、この本は一般の人々に向けて書いた本ではない」と著者は主張するかもしれない。しかしこの本の語り口はいかにも一般の人々に向けて書いているかのようである。

SNは、企業にとって新しいメディアであるかもしれないけれども、多くの人々にとってはすでに日常で使いこなしているメディアである。(私はまだ十分使いこなしているとはいえないが。)そのような観点からすると、SNは決して万能のメディアではなくて、多くの欠点をかかえてえている。東北大震災のような災害時に、人々の人命を救うという観点からは、SNは十分な働きはできなかった事をこのブログでも指摘した。

このような問題点を解決するべき次世代のSNが生まれる事が望まれているのではあるまいか。そして「明日のコミュニケーション」という本に人々が期待するのは、現在のSNに対する賞賛ではなくて、次世代のSNがどうあるべきかという内容ではないのだろうか。