シンガポール通信ーデカルト「情念論」2

前回述べたように、デカルトは心の論理的な機能に関しては、身体の機能とは独立していると考えていた。そしてこれは明示的には記述されなくても、西洋哲学の基本的な考え方である。ところが心の機能は体の機能と密接につながっている部分がある。

例えば悲しければ涙が出るし、怒りの感情に襲われた場合は顔が赤くなったり心臓の鼓動が早くなる。このような体の機能と密接に結びついた心の機能は、プラトン以来の西洋哲学において切り捨てられて来た感情の機能である。デカルトはその事を指摘され、心の感情の面に関する働きを考察し、その結果を「情念論」にまとめた。

デカルトは、基本的な情念を基本的な情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」の6つに分類している。それでは情念と私たちが通常使っている感情は何が異なるのか。感情は古くから「喜怒哀楽」といわれるように、4つの基本感情からなっているといわれてきた。それに対しポール・エックマンは心理学的観点から、感情を「幸福感」「驚き」「恐れ」「悲しみ」「怒り」「嫌悪」に分類しており、これが最近では通常の感情の分類となっている。

それに対してデカルトの分類では「愛」「欲望」が加わっている。これは私たちの常識では感情とは言わない。これが、彼の著書が感情論ではなくて情念論となっている理由であろう。いずれにしても彼は、情念論の中でこれらの情念がどこで生じそれが体の働きとどう関係しているかを論じている。

デカルトによれば、情念は松果体と呼ばれる脳の中心部にある部分で生じている事になっている。現在の脳科学では、松果体メラトニンを分布する器官であり、感情が生じる部分とは考えられていないが、いずれにせよ脳の中心部に近い部分が感情と関わっているという意味ではかなり正しい考え方をしている。

また、種々の感覚器官からの感覚信号が神経を伝達して脳に伝わると同時に、また脳からの指令が神経を経由して筋肉に伝わり体の運動を引き起こす事についても、デカルトは正しく把握している。もっとも、神経信号がこの伝達に使われるという考え方ではなく、ある種の「精気」が神経内を通って伝達されるという考え方をしているが、基本的には正しい理解と言っていいであろう。

これは、彼自身が人体解剖に携わったりする事により得た知識に基づくものである。その意味では、彼は哲学者であると同時に自然科学者でもあったわけである。情念論はまず感覚が神経を通して脳に伝わりまた脳の指令が神経を通して身体(筋肉)に伝達される事を説明する。

さらに心の働きに関しては能動的なもの(自由意志)と受動的なもの(感情)が存在すること、それらの働きに関しては松果体で生じる事を述べた後、受動的な働きは意志の働きとは関係なく、神経を通って伝えられた感覚情報が引き起こすことを述べている。

意識の働きさらに意志の働きは、松果体を含めた脳幹ではなくて新旧皮質などの部分で行われているというのが、最近の脳科学の知見である。その意味では、松果体が精神の存在する中心部分という考え方は間違っているのであるが、まだ現在の脳科学でも具体的な意識・意志の機能のプロセスがわかっていないことからすると、全く誤っているという言い方も正しくないかもしれない。

それはそれでいいのであるが、問題は結局デカルトが「情念論」において感情と理性の関係を十分突き詰めて考えているかどうかという点である。私がこの本を読んで理解した範囲では、結局デカルトがこの本で述べているのは特定の感情と体の働きの関係(例えば怒りの感情に対しては顔が赤くなったり脈拍が早くなるなど)を個別に羅列しているに過ぎないということである。
それならば単に私たちが自分の感情と自分の体の働きの関係として知っている事に過ぎないのではないだろうか。私たちが本当に知りたいのは、心の理性的な働きと感情的な働きの関係、例えば感情が理性を曇らせる事があったりするのを二元論的観点からどう説明するのかといったことなのであるが、それに関しては何の説明もない。

理性と感情の関係に関しては、あくまでも感情を理性が制御できるという記述にとどまっている。その意味ではプラトン以来の西洋哲学の範囲を出ていない。しかしひるがえってみれば、彼以降の西洋哲学も感情を正面からは取り扱っては来なかったのではないだろうか。これはすこし調査をしてみる必要がありそうである。