シンガポール通信ーデカルト「情念論」

デカルトはあの有名な「我思う、ゆえに我あり」によって、思考する主体としての個々人の自由意志の存在を指摘し、それがすべての哲学的思考の基本となるべきことを指摘したことで良く知られている。

このブログでもなんども取り上げたが、西洋哲学においては、ソクラテスプラトンに始まる心の働きを理性的働き(ロゴス)と感情的働き(パトス)に分け、かつ理性的働きを人間特有の働きとして、そこにこそ人間の心の働きのあり方を認めるという考え方がその中心にある。ここにすでに二元論的考え方がある。

それ以降の西洋哲学は、いわば人間の心の働きの理性的側面にのみ注目し、感情的側面は軽視して来たきらいがある。また、ギリシャ哲学以降の哲学はキリスト教の影響を大きく受け、神の存在を前提としたいわゆる神学に傾いて行き、人間の立場はあくまでも神の被創造物であるというものであった。

それに対してデカルトの哲学は、心の理性的働きの主体を自由意志においたことに大きな意義がある。キリスト教に基盤をおいた神学・スコラ哲学が全盛だった時代において、人間の自由意志を最上位におくという考え方が革新的であった事は明らかだろう。

と同時にデカルトは、心と体の働きを明確に分けて考える事を提唱した事でも知られている。いわゆる心身二元論である。これは、プラトンによる心の働きをロゴスとパトスに分ける二元論をさらに押し進めたもので、世界を心(精神)と物質にわけ、心を取り扱うのが哲学であるとしたものである。

そしてここでいう心の働きというのは、プラトンによって提唱された心の理性の働きを対象にしている。言い方を変えると、感情の働きは無視されているのである。人間のそして世界の物質的側面を切り捨て精神面にのみ注目し、しかもその精神の働きの理性的側面のみを扱うというのが西洋哲学なのである。こう考えると、すべてを統一的に考えようとして来た東洋哲学に対し、西洋哲学はいかにも狭い対象を扱って来た事がわかる。

もっともそのような方法論が理性の精緻な考察につながるとともに、切り捨てたはずの世界の物質的側面に関しては科学がそれを扱うという分担ができ、しかも二元論的考え方を科学に当てはめる事によりそれ以降の西洋科学の飛躍的進歩につながったというのは、いかにも歴史の皮肉な面ではないだろうか。

ちょっと脱線するけれども、歴史の皮肉の最近の例をあげさせて頂きたい。このブログでも何度か取り上げたが、創造性に富んだ天才スティーブ・ジョブスによって開発されたiPhoneiPadなどの製品(以下まとめてスマートフォンと呼ぼう、スマホはいかにも日本人的な略称だけれどもあまりいい響きがしない)が、ある意味で人々の創造性を抑圧するというのも別の意味で歴史の皮肉ではないかと私は思っている。

もちろんスマートフォン用に様々なアプリケーションが開発されており、それらのアプリケーションの中にはいかにも創造性に富んだものがあることは確かである。しかしこれはスマートフォンがソフト開発者の創造性をかきたてたと考えるべきであり、それを使う人たちの創造性にはまだつながっていないと思う。

これらのアプリケーションを使って全く新しい使い方が出てくれば、それはユーザの創造性に基づくだと認めても良いけれども、現時点では大半のユーザはそれらを使いこなすのにおおわらわであり、いわばスマートフォンに使われている状態だといったら言い過ぎだろうか。

さて最初の話題に戻って、デカルトは人間の心の感情的側面はずっと無視したままだったのだろうか。これに対する答えは「ノー」である。彼が人間の心の感情的側面の働きを考察したのが「情念論」である。

同時に、この情念論が書かれるまでのいきさつが興味深い。彼が文通していたプファルツ公女エリーザベトからの「厳密に分離されるべき心と体が時に相互作用をおこすのはなぜか(例えば悲しいという心の状態と涙が出るという体の状態が関係していることなど)」という質問に対して答えようというところから、彼が感情の働きについて考え始めたというのである。

つまりデカルト自身の意志により感情に関して考え始めたのではなくて、他の人からしかも感情的と言われる女性からの質問が発端となって、彼の感情に関する考察が始まったというのである。これもまた歴史の皮肉といえないだろうか。

(続く)