シンガポール通信ースティーブジョブス2

(前回より続く)

ワークショップのゲストスピーカーとしてスティーブ・ジョブスが招待されることは、実は聴衆にはあらかじめ知らされていなかった。多分ワークショップのオーガザイザ側がサプライズとして用意したものだったのかもしれない。

彼が現れたのは私にとっても他の聴衆にとっても驚きであった。「えっ」という驚きと共に、米国人(しかも西海岸の住人)が大多数であった聴衆は大きな拍手を持って彼を迎えた。しかしそれは、この伝記にしばしば記述されているような「熱狂的な拍手・歓声」とか「スタンディング・オベーション」にまでは至っていなかった。

むしろ、かってはアップルの創設者としてアップル華やかなりし時代にトップに立った人間、そして現在は失意の状況にある人間に対する、「スティーブ、僕らはまだ君をおぼえているよ」とでもいうある種の暖かさをこめた拍手だったような気がする。下品な言い方をすると、かっての大スターで現在はどさ回りをしている人に対する「がんばっているね」という激励の意味を込めた拍手だったと思われる。

私自身もそのような目で彼をながめてしまった。私自身はマックの愛用者であったが、その当時はマックのシェアも落ちており、アップルの会社全体としても落ち目で、いつまで会社が存続できるかという状況であった。

かってのアップルの栄光の時代とそれを牽引していたスティーブ・ジョブスの頂点の時代を知っていた私としては、トイストーリーのCGの制作過程を説明する彼の姿を見るのは、正直言ってつらかった。

CGはジョブスの専門分野ではない。ピクサーは、彼がルーカスフィルムのアニメーション部門を買収して独立させた会社であり、彼が会長にはなっていたものの、アニメーション制作そのものには彼が直接タッチしていたとは思われない。彼はアップル時代もそうであったが、パソコン・ワークステーションのハード・ソフトの開発に情熱を感じる技術者だったと思われる。

その彼が、トイストーリーの制作過程を説明している様子は、現在の立場上やむを得ないからやっているのだということは私にも痛いほどわかった。そして、この伝記に何度も書かれているようなカリスマ性を感じさせるプレゼンではなかったような記憶がある。

いずれにしても、かっては栄光に輝いていたがその座から降りた人間、悪く言うと過去の人間、時代に取り残された人間というような感覚を彼に持ったことは確かである。その彼が再びアップルを率いて、彼自身もそしてアップル社も奇跡の復活を遂げ、なんとアップルが時価総額世界一の会社になるとは誰も予想できなかったことは確かである。

第一、世界的なレベルで頂点に立ち、その後その地位から滑り落ちた人間が、再び以前以上の栄光を得たと言う例があるのだろうか。世界歴史を見てみてもそのような例はないのではないだろうか。一つあげるならば、失脚しエルバ島に流されたナポレオンの復活があげられるかもしれない。しかし結局百日天下といわれるように、ナポレオンの復活は長くは続かなかった。

これに対してジョブスの場合は、破産寸前のアップルを復活させ、時価総額世界一の会社にしたのであるから、彼に匹敵する奇跡の復活をとげた人間は歴史を見てもいないのではないだろうか。そのような失脚と完全復活という歴史的に見ても例のない偉業を成し遂げたというところにも、彼の伝記が人々を興奮させ感動させる点があるのではないだろうか。

そしてまた、ジョブスがその絶頂においてガンによるあまりにも早い死を迎えたと言う事実も、人々に深い印象を与えるのではないだろうか。これだけの絶頂期において死を迎えた人というのも歴史的に見ても希有なのではないだろうか。

絶頂期にもしくは輝いている時に死を迎えた人として、私たちの頭にのぼる一人はハリウッド俳優のジェームス・ディーンであろう。3本の映画に主演しただけのこの若者の名前が今も覚えられているのは、彼が輝いている時、そしてこれからもっと輝こうとしている時に死去したことが大きいのではないだろうか。

とするなら、スティーブ・ジョブスは技術史に長く名前の残る人間であろう。発明王と言われたエジソン以上の存在として語り継がれて行く可能性もあるであろう。

(まだ続く)