シンガポール通信ー日英自動翻訳は使えるか?

現在、昨年オーム社から出版した本の英語版の出版を狙って、その英訳を行っているところである。まだ出版社が決まったわけではないが、国際会議の論文集の出版や、英文の論文の出版にここ2年ほどかかわっているので、まあ英語の本の出版社と関係がないわけではない。

英語に限らず本の出版の際には、内容に関する企画書を作り出版社に持ち込むというプロセスを取る。もちろん出版社の編集者と何の面識もなくても、企画を持ち込み編集者に気に入ってもらえると出版にこぎ着ける事は可能である。

とは言いながらそのような持ち込みは多いだろうから、編集者もすべてに対応するわけにはいかないだろう。という意味ではやはり誰かに紹介してもらった上で企画書を持ち込む方が有利な事は確かだろう。

このあたりはコミック業界の方が大変だろうと思われる。漫画家になりたいという若者は数多いだろうから、コミック雑誌の編集者への持ち込みも多いだろう。このあたりのことは、コミック雑誌を見ていてもある程度業界内の様子をばらしているマンガもあることから、察しがつく。

一方で、ベストセラーを出した作家や有名作家は、出版社の方から出版依頼が引きもきらないという事だろうと思われる。このような状況は、実はネットワーク時代になってからもあまり変わっていないのではないだろうか。

ネットワーク時代になると誰もが情報の発信者になれるという、楽観的な見方が支配的だった時代がある。Web2.0というのもある意味で、Web1.0がインターネット上の情報を閲覧するという行動が主流だったのに対し、Web2.0はインターネット上で誰もが情報を発信できるという意味でつけられた名称であろう。

たしかにブログ、TwitterFacebookなどにより、誰もがインターネット上に自分の意見等を流す事は比較的簡単になった。しかし、それは「誰もが情報の発信者になれる」という意味で私たちが予想した事だろうか。

「誰もが情報の発信者になれる」という事の意味は、小説や詩を書いたり批評を書いたりという、これまではほんの少数の人たちに認められていた特権をすべての人が持つ事ができ、「誰でも小説家」ということになり、出版業界がインターネットに取って代わられるということではなかったのだろうか。

たしかに、「電車男」というインターネット上の小説が話題になり、出版されてベストセラーになり、映画やテレビドラマにまでなるという一種の「事件」はあった。しかし結局はそれ限りになってしまったのではないだろうか。ということは、人々が注目したのはその新規性であって、残念ながら小説そのものの内容ではなかったという事になるのではないだろうか。

そしてTwiterやFacebookでやりとりされる短い文章は、自分が現在行っている行為を紹介したり(今電車乗っているナウ、など)、ニュースに対する簡単な感想であったりして、残念ながら小説・批評などといわれるものではないことは認めざるを得ない。

さてこれをどうみるべきだろうか。一方には、「それでもなお、誰もが情報発信できるようになったのは革命的な事である。発信される情報の質は徐々に高くなって行く。そして将来は本当の意味で誰もが小説家・批評家になれる。その意味でインターネットは人々の情報発信に革命を起こした。」という見方があるだろう。

しかしながら他方には、「現在のTwitterFacebookで実現されているのは、昔の井戸端会議に過ぎない。現在生じているのは、昔の井戸端会議が大きなスケールで実現されたものであり、残念ながら取り交わされている情報の質は昔の井戸端会議と変わらない。そしてまた将来ともにそうであろう。ということは、インターネットは人々の情報発信に何の革命も起こしていない。」という意見もあるだろう。

これは何とも答えに困る質問であると同時に、私が最近最も興味を持って考えている事でもある。ということで日本語の文章を英語に翻訳する話が、最初から脱線してしまった。日英翻訳に関しては次回にしよう。