シンガポール通信ー安西佑一郎「心と脳」

先日帰国した際に、本屋で岩波新書の新刊として安西佑一郎先生の「心と脳」を見つけたので、早速購入しこの週末に読んでみた。副題に「認知科学入門」とあるように、認知科学のこれまでの歴史、最近の動向、そして未来への期待などをまとめた本である。一読してみたが、久しぶりに新書で骨太の内容の本に出会ったという感じである。

かっては新書はいずれも、その道の専門家が一般の人向けに専門的な事柄について解説する内容のものが主であり、しかも一般人向けとはいっても、内容的にはしっかりと専門的な部分も押さえてあり、読み応えがあったものである。

特に岩波新書は、新書の中でも硬派の最右翼であり、種々の分野の専門家の中でもよりすぐった人たちがいわば研究の総まとめとして著述した本が多く、いずれもなかなか簡単には読破できない質の高い内容のものがそろっていた。

最近の新書は、読者の読書離れを引き止めようとしてか、残念ながら極めてやさしく記述してありさっと読み飛ばせる内容のものが大半になって来た。悪い言い方をすると、いずれの新書も他の書棚に並んでいるハウツーものの本と同じような内容の本になって来てしまっているのである。

新書の低俗化と言うべきか、そして残念ながら硬派でならした岩波新書もその影響を受けてか、読みやすい薄い内容の本が多くなって来ていると思っていた。これは岩波書店の編集者の人に聞いてみても、そのとおりと同意してくれたので、残念ながら日本の新書本業界全体の傾向なのだろう。そのような状況の中で、昔ながらの硬派の内容の岩波新書に巡り会ったという感じがして大変うれしかった。

安西先生慶応義塾大学の教授として、ずっと認知心理学の研究に携わってこられ、日本の認知科学研究を牽引して来た代表者の一人と言っていいだろう。その意味では認知科学全般に関する歴史・現状・未来を一般の読者に示してくれる著者としては最適であろう。

安西先生は、むしろ慶応義塾大学の塾長として名前を知っている人も多いだろう。2001年から2009年の長期にわたって塾長を務められた。塾長として種々の新しい施策を慶応義塾大学に導入され、名塾長として慶応内にはとどまらず、大学人全体にそしてまた政界・経済界の人たちにも広く知られ高く評価されて来た。

安西先生が私と同年齢という事もあっていろいろな面でおつきあいさせて頂いて来た。塾長を辞められてから再び研究にいそしんでおられると聞いていたので、元気で研究・著述にいそしまれていることがわかったという意味でもこの岩波新書の新刊に出会った事はうれしかった。

さて内容であるが、第1部「人間とは何か」、第2部「認知科学の歩み」、第3部「未来へ」という3部構成になっている。
第1部では、人間の心の働きの種々の面に焦点を当て、人間の心が極めて複雑な働きをしている事、そしてその働きを解明するためにはどのように人間の心の動き、そしてそれを作り出している脳の働きに迫るべきかについて記述してある。

具体的には、まず人間の心の働きを「コミュニケート」「感動」「思考」「熟達」「創造」という5つにわけ、それぞれの分野における心の働きの例を示している。次にそのような心の働きにもう少し踏み込んでアプローチし、現象面から見た場合に心がどのように機能しているのか、そしてさらにそれを脳の働きをしてみた場合、それぞれの機能が脳のどの部分と関わっているのかなどが記述してある。

次に第2部ではこのような心の働きそして脳の機能に具体的に迫るための学問である、認知科学がどのようにして発展して来たのかについて記述してある。具体的には、認知科学の進展を誕生(1950年代)、形成(1960年代)、発展(1970年代)、進化(1980年代)の4つの時期にわけ、それぞれの時期に置ける代表的な研究成果を研究者の名前と共に記述してある。

私も研究者として認知科学研究・人工知能研究の一端をかじった経験があるので、この第2部の内容は、これまで断片的にしか知らなかった認知科学の研究成果がまとめて記述してあるため、断片的な知識がまとまって認知科学のこれまでの歩みとして頭に入ったため大変ありがたかった。

しかし一般の人に取ってはどうであろうか。概して研究の流れの解説というのは、人名と具体的な成果の羅列になってしまいやすい。特に研究者の人名は、一般人にとっては特に情報量を持たない。さらには具体的研究成果の記述はどうしても専門的になってしまう。ある程度その分野を知っている人にとっては有用であっても、一般人に取ってはよみづらいのではないだろうかと少し気になった。第3部まで読んで再び感想を書きたい。