シンガポール通信ー「荀子」を読む

9月から10月にかけて出張が重なり、週末の休みを取ることがあまり出来なかった。来週再び日本で行われる国際会議に出席のため帰国するが、この週末は久しぶりにシンガポールの自宅でゆっくり休養できた。

帰国の度に買い求めて来た岩波文庫本がかなりたまってきたので、この週末に少し読書をしようという訳で「荀子」を読み始めた。

荀子は中国の人で、紀元前313年に生まれ紀元前238年に没したとされている。彼よりほぼ200年前に生きた孔子によって始められた儒学の流れを汲む哲学者である。

荀子が有名なのは、同じく儒学の流れを汲み彼より約60年前に生まれた孟子の「性善説」に対し、「性悪説」を説いたことにある。

性悪説とは、人は本来の性質が悪であるというものである。「荀子」32編のうち第23編に性悪編と名付けられた記述がある。

その出だしでは「人間の性質は本来悪であり、善と見える性質は偽である」と書いてある。ここでいう偽は見せかけという意味にとらえるより、後天的に身につけたものと理解すべきであろう。

いいかえると、人間は本来利益や欲望を追求する性質を持っているから、それを放置しておくと他の人と争いがたえず、社会が成り立たなくなる。したがって、教師が規範や礼儀を教え示すことによって始めて他人と譲り合うようになり、社会が成立する。ということを荀子は主張している。

これに対して孟子はいわゆる性善説を説いているが、それの意味するところは、人間の性質は本来善であるが、それが周囲の環境や教育によって時として失われるため、悪を行うこともあるというものである。

この二人の主張を見てみると、同じ物事を表から見ているか裏から見ているかの違いではないかと言う気がしてこないだろうか。善とか悪とかは、いわば分別がついた後の人間に取って意味があることであり、生まれたばかりの赤ん坊には善も悪もないのではないかということである。

生まれたばかりの赤ん坊に備わっているのは善でも悪でもなく、それは「本能」とでもいったら良いものではないだろうか。人間は本能に従い自分の生存を第一とした行動をとる。と同時に、人間は社会的動物であるといわれるように、兄弟・親子・グループなどで共存して行動し社会生活を行い、種として行き延びようとする本能も持っている。

この個人としての生存目的と集団としての生存目的が合致した時は個人としてとる行動と集団のために貢献する行動が一致している。このような場合に注目すると人間の性質は本来善であるといいたくなるだろう。ところが時には個人としての生存目的と集団としての生存目的が異なる場合がある。

例えば、会社の会議がある同じ日に自分の妻か子供が病気になりそばに居てやる必要が出て来たとする。果たしてどちらを優先するかと言う場合に、人は総じて自分個人の都合を優先しやすい。これを会社の上司の立場から見ると、人の性質は本来悪であるということになる。

これをもって人間は性悪であるというのは言い過ぎかと思われる。しかしながら東洋の長い歴史では、国家や組織優先の論理が強かったため、荀子性悪説孟子性善説に比較して人気がないということになる。

しかしながら、儒教の基本思想である人が天から与えられた仁・義・礼・智を伸ばすことによって国家に貢献すべきであるという考え方が少々窮屈に感じられるのに比較すると、荀子の教えはより合理的で客観主義的にみえることは事実である。
荀子の弟子には荀子の考え方を延長して法律第一主義を唱えた韓非子が出ているが、さもありなんと言った感じがする。ともかく荀子を読み終えてからもう少し詳しい読後感を書こうと思っている。