シンガポール通信ーTwitter、Facebookとアウェアネス

ネットワーク社会の定義とは何だろう。これまで言って来た事から考えると、それは「社会の参加者のすべての人が常に情報のやり取りが可能であり、情報の共有が可能であり、そしてすべての事項が参加者の議論と同意によって決定される社会」であると考えて良いのではないだろうか。

そしてギリシャ時代の都市国家では、少なくとも自由な市民の間ではこのような社会が実現されていたと考えて良いのではないだろうか。そして現在それに相当するものは何だろうかと考えると、FacebookTwitter上に構築されたコミュニティがそれにあたるのではないだろうか。

FacebookTwitter上に構築されたコミュニティ上では、そこに属しているメンバーは、自分の現在の状況を常に短いメッセージなどで知らせ合う。また、必要な場合は皆に議論のネタとなるようなトピックを提供して自然に話し合いや議論が生じて、そしてコンセンサスが形成されて行く。

かって情報工学の分野で、アウェアネス(Awareness)をどう実現するかが議論され、そのための研究が盛んだった時期がある。アウェアネスとはいわば気配のようなものである。明示的にコミュニケーションをしなくても、皆が一緒にいるという雰囲気をコミュニティの中でどうしたら共有できるかという問題と解釈できる。たとえば一緒に住んでいる家族は、たとえそれぞれが何をしているかを言葉で他の人に伝えなくても、大体雰囲気でわかりあえる。

日曜日の家庭を考えてみると、お父さんは車を洗っていたり、お母さんは昼食の準備をしたりしている。そして子供は宿題をしたりゲームをやったりしている。お父さんは「今から私は車を洗おうと思うが、いいだろうか」などと言ったりはしない。特に明示的なコミュニケーションは行わなくても、誰が何をしているかを皆が大体知っている。そして必要なときに「お昼ですよー」とか「一緒に遊園地に出かけるか」などの具体的な行動の提案が行われる。

アウェアネスの研究は、このような雰囲気の共有が離れた場所にいるグループ、コミュニティのメンバーの間でどうすれば実現できるかということを目的としており、いろいろな研究が行われたが、いずれも今ひとつということでそのうちに下火になった。

ところが、実はTwitterFacebook上ではまさにそれが実現されているのではないだろうか。そこでは1対1のコミュニケーションの頻度は多くない。それよりも自分が何をしているかを知らせあうことにより(Twitterの場合であればつぶやくことにより)、それによって他の人たちが何をしているかを大体知る事ができる。そして必要な場合には特定の話題について議論をする。

研究の分野で真剣に議論され研究されたテーマがなかなか実現されず、ところがそれが少し別の形で社会の中でいとも容易に実現されてしまうというのは、じつはしばしば生じる(特に情報科学などの分野では)現象である。上記のアウェアネスがその良い例だろう。

他の例としてWikipediaがある。ネットワークでつながれた多くの人たちが辞書や百科事典の内容をボランティア作業的に追加したり修正したりすれば、常に最新の形での辞書や百科事典ができるのではないかというアイディアは、研究者の間ではしばしば考えられていたアイディアである。私がNTTにいた時代にも、同じ研究部の中でそのようなテーマに取り組んでいた研究者がいた。

しかし研究としては結局実を結ばず、そうこうしているうちにWikipediaができてしまった。どうして研究ではなかなか実現されなかった事が、実際の社会で実現できるといういわば研究より社会が先に行ってしまうという事が生じるのだろう。1つには、研究者がまじめすぎて、問題を正面からとらえようとしてしまうからかもしれない。

たとえばアウェアネスに関して言えば、雰囲気を離れたところにいる人の間で共有するにはどうするかという問題に対して、どうしても研究者は正面から取り組みがちである。具体的に言うと、雰囲気を味やにおいと解釈して味やにおいをどう正確に伝えるかという問題としてとらえてしまいやすい。もしくは、離れたところにいる人の姿形をいかに正確に3Dで再現するかなどの、いわゆるバーチャルリアリティの研究になってしまいやすい。

ところがFacebookはよく知られているように、女子学生の人気投票を行うためのサイトを開設したところから始まっているのである。もちろんアウェアネスという概念の実現のなどのために始めたサービスではない。それが結果としてアウェアネスの実現につながっている訳である。面白いと言えば面白いが、研究者としては少し複雑な心境ではある。