シンガポール通信ー未来学について考える

かって未来学が流行した時代があった。アルビン・トフラーの「第三の波」は有名だし、マーシャル・マクルーハンのメディア論も未来学の一つと考えていいのではないだろうか。しかしなぜか現在、未来学について聞く事は少ない。なぜだろう。

どうも私の考えるところでは、現在私たちの周辺で起きている変化が急激すぎて、未来が見通せないと皆が考えているのではないだろうか。しかしこのブログでもいろいろと述べて来たつもりだけれども、少し視点を変えると物事が見えてくるのではないだろうか。そしてその時に必要なのは過去に学ぶ事ではないだろうかと思ているのであるが、いかがだろうか。

人々は現在起こっている事が、歴史的に全く新しい事であるかのように思っている。そしてその流れに乗らないと、取り残されてしまうのではないかと恐れているようである。

私の住んでいるシンガポールでは特にその傾向が激しいのかもしれない。新しいiPhoneが出るとそれに飛びついて買い替える人が多い。確かに新しい機能は追加され使いやすくなっているだろう。しかし基本的な機能が変っている訳ではない。

そしてなぜ買い替えるのかと聞いてみても、明快な答えが返ってくる訳ではない。どうも最新のコミュニケーションデバイスを持っていないと、他の人から遅れていると思われるのを恐れているようなのである。

シンガポールは新しいもの好きの国なのでこういう行動が目につくのであるが、それは日本でも同様ではないだろうか。新しいスマートフォンが出そうだとなるとわざわざ米国まで買いに出かけてその使い勝手をTwitterでつぶやくという人たちのなんと多い事か。その目的は、新しい製品を使ってみる事その事にあるようなのである。

そうではなくて、新しい機器を買うことによって、その人の生活がどのように変わるのかどう改善されるのかという事を考える事が必要ではないだろうか。そしてそれはいってみれば、新しいコミュニケーションデバイスがその人の生き方さらには人生にとってどのような意味があるのかを考えてみるべきではなかろうか。それこそが哲学なのではないだろうか。

哲学というと古くさいと考える人が多いと思うけれども、現在のような変化の激しい時代こそ表面的な流れに惑わされないで、腰を落ち着けて何がどのように変化しつつあるかを見る事が大切なのではないか。

そしてそのような観点から見てみると、実は起こっている事の多くは新しい事というより、既に過去において起こっていた事が新しい衣を着て再登場しているに過ぎない事に気付く。

例えば、Twitterによる短いメッセージのやりとりと、平安時代の和歌によるコミュニケーションの間にはよく似たところがある。Twitterの文字制限は17文字、和歌は31文字。長さに少々のちがいはあるけれども、いずれも短いメッセージに自分の思いを込める必要があるという意味ではよく似ているのではないだろうか。

和歌の贈答は個人レベルのコミュニケーションであり、Twitterのメッセージはすべてのフォロワーが見る事ができるという違いがあると指摘されるかもしれない。

しかしながら、源氏物語などを読んでみるとわかるけれども、和歌の贈答は決して個人間で閉じていたものではない。貴族であれば当然お付きの人も一緒に読んだわけだし、姫君であればもらった和歌をお付きの女官が回し読みするような情景もよく出てくる。

そしてもらった和歌のうまい・下手によって、女官達が姫君に相手の貴族とつきあう事を勧めたりもしたであろう。つまり和歌の贈答によるコミュニケーションは、けっこう開かれたコミュニケーションだったのではないだろうか。

そしてそのような観点から見ると、現在のTwitterで送られるメッセージの多くは貧困な内容しか含んでいないのではないだろうか。「渋谷についたナウ」「食事をしているナウ」などのメッセージは全く無意味とは言わないが、もう少し何とかならないものだろうか。

ということは、平安時代の和歌によるコミュニケーションに比較すると、実はTwitterによるコミュニケーションは質としては低下しているのである。和歌の贈答というコミュニケーションがITの衣を着て再登場しながら、その質が低下しているというのはどう考えたらいいのだろうか。それともTwitterのメッセージの内容はこれから向上するのだろうか。