シンガポール通信ーネットワーク時代の哲学

ブログを開始してから約1年半経過した。今まで書いたものを読み直していると、「シンガポール通信」という割にはシンガポールに関する記述が少ない。シンガポールの最新事情を求めて私のブログを訪れてくれる人には申し訳ないと思っているが、まあシンガポールにも慣れてしまって、こちらの生活が日常になってしまったというのが正直なところである。

もちろん、最近のシンガポールの総選挙などのタイムリーな情報は私も大変興味を持っているが、まあ慣れてしまえばシンガポールもそれほど常に新しいニュースがあるわけではない。町を歩く人たちの歩くスピードはいかにもゆったりとしており、あちこちで建設工事が行われており刻々と様子が変わる町の風景とはいかにも対照的である。本来シンガポリアンはのんびり生活が好きなのかもしれないと思ってしまう。

シンガポールに関する記事に比較して多いのは、やはり最近のメディアに関する記述である。私自身がメディアに関連している仕事をしているからだろうか。これまでメディアに関して書いた記述をまとめているのであるが、以下のような形で比較的まとまった形になるのではないかと思っている。まとまった形で出版できればというのが希望である。

「ネットワーク時代の哲学」
1.アジア化する欧米
 1.1 日本特殊論
 1.2 欧米人の行為の日本人化
 1.3 フラット化した社会
2.西欧二元論の終わり
 2.1 ロゴスとパトス
 2.2 意識と自由意志
 2.3 東洋一元論と西洋二元論
 2.4 ロゴスとパトスの接近
3.メディアの哲学
 3.1 震災とメディア
 3.2 電話と映画が世界を変えた
 3.3 人間の歴史とコミュニケーション本能
 3.4 最近のメディアを批評する
4.ネットワーク社会の哲学
 4.1 ネットワーク社会の構造
 4.2 ネットワーク社会の光と陰
 4.3 ネットワーク社会の将来

「ネットワーク時代の哲学」とはいかにも上段に振りかぶったタイトルに聞こえるかもしれない。しかし、このブログでも何度か指摘したけれども、現在は哲学不在の時代なのではないかというのが私が最近思っている事である。

哲学など必要ではないという人も多いだろう。しかしその一方で、私たちの多くは社会や生活スタイルの急激な変化にとまどい、新しく出たiPhone, iPadなどのデバイスTwitter, Facebookなどのコミュニケーションメディアに振り回されているのではないだろうか。

少し腰を落ち着けて、現在起こっている事の底流を見てみてはどうだろうというのが私の提案である。これまで書いて来た事と重なる部分も多いけれども、まとめが進むのと並行して各章の概要をこのブログでも紹介して行きたいと思っている。