シンガポール通信ー和辻哲郎「倫理学」を読む3

他の話題が入って来たので、和辻哲郎の「倫理学」を論じるのが中断していた。とは言いながらあまり長々と論じるのも良くないので、今回でまとめてみたい。もう一度全体の構成を示しておこう。

第1章:人間存在の根本構造
第2章:人間存在の空間的・時間的構造
第3章:人倫的組織
第4章:世界史における諸国民の業績

この本の中心的な部分はやはり第3章であろう。ここでは、具体的に社会における各種のグループ、組織のあり方を観察・分析しながら、人間関係というもののあり方を論じている。

前回も述べたように、ここでも和辻哲郎は、従来の哲学・倫理学が個人のあり方に焦点を当てて来たのに対し、本来哲学・倫理学は人と人の関係性に焦点を当てるべきであるとの立場に立っている。

彼はまず人間関係の基本として夫婦をあげている。夫婦が、個人でもなくまた個人の単なる集合でもなく、人間関係で結ばれた組織の基本形であるというのが、彼の論じたいところであろう。

基本的にはその通りなのだけれども、前回も述べたように個人の意識・意志などに焦点を当てた哲学・論理学が、自分に他人を加えた「我と汝」の意識・意志の問題をどう取り扱うかという問題点が解決されているようには思えない。

なぜ他人と意識・意志が通じ合えるか、共有し合えるかという問題点については、彼は直接答えていないのである。彼は、情愛に基づいたいわば一心同体としての夫婦関係の重要性については詳細に論じており、多分これでもってこの疑問に答えようとしているのだと思われる。

しかし、夫婦における情愛の重要性を論じたからといって、「我」から「我と汝」という関係へジャンプする際の溝を埋める事にはならないのではないか。私自身も、結婚・離婚・再婚を経験したけれども、やはりいまだになぜ他人と理解し合えるのか、もしくは個人としての私が理解し合えるという気になっているだけなのかという点は疑問のままである。

和辻哲郎は、夫婦関係に続いて、子供を含めた家族、さらには親族を含めた親戚関係へと関係性の含まれる範囲を広げて論じて行く。同時に少し異なった関係性として家族が含まれるコミュニティにおける人間関係、経済関係で結ばれた組織(会社など)における人間関係、そして最後にまとまった組織としての国家における人間関係に議論を進めて行く。

それらの記述はいかにも和辻哲郎らしく、論理に基づくとともに彼の豊かな感性に基づいたものであり、説得性に富んだものである。しかしながら、いったん一人から二人の関係へとジャンプした以上はそれを三人以上への関係性に延長して行く事はべつだんむつかしいことではないだろう。

また、それと共に気になるのはかれがそれぞれのグループの関係性を論じるときに、いずれも日本におけるグループを例題として取り上げている事である。日本の社会が特殊であると言うつもりはないが、やはり家族関係、親族関係、村社会などにおける人間関係を論じるとき、あまりにも日本だけに焦点を絞って例を挙げる事は公平性を欠くのではなかろうか。

「風土」などの若い頃の和辻哲郎に見られた、日本という風土に立脚しながらも世界的視点から物事を見ようとする態度が影を潜めているように見えるのである。裏を返すとこのことが、彼に対して日本礼賛論者、天皇制肯定論者などという批判が行われる原因になっているのではないだろうか。

この辺りは単なる表面的な解釈に堕してもまずいので、またそのうち再読して意見を書きたいと思っている。

最後になるが、第4章は世界史のダイジェスト版として大変易しくまた楽しく読める記述になっている。特に「風土」という観点から世界史を俯瞰した視点は彼独自のものが感じられる。