シンガポール通信ー和辻哲郎「倫理学」を読む

3月にシンガポールで行われた国際会議のオーガナイズなどでしばらく中断していたが、和辻哲郎倫理学」を再び読み始めた。岩波文庫本4冊の大著である。

この本で彼は何を主張しようとしているのだろう。この大著への導入的な役割を持った本として、彼は「人間の学としての倫理学」という本を書いている。この本は「倫理学」の著述のダイジェスト版と言っていいわけで、別の言い方をすると「倫理学」への入門書でもある。また同時に、この本のタイトルそのものが彼の倫理学の性格を表している。

「人間」とは人の間と書く。つまり人と人の関係性の事を意味している。通常私たちは、人間とは人の事を意味していると思っているが、同時に人間とは人と人の関係性の事も意味しているのである。そしてこのことは、人間の学としての「倫理学」が人と人の関係性のあり方を記した本だという事を意味している。

従来の哲学・倫理学、特に西欧のそれらは、人とはなにか人はどうあるべきかを主として説いて来たといっていいだろう。つまり自分もしくは「我」とは何かを問い、意識を持ち意志を持ち、さらには自由意志をもつ主体としての人間を深く考察して来たのが、西欧の哲学・倫理学の歴史であるといえる。

しかしながら当然の事であるが、人は社会的な動物である。人は夫婦となり家庭を作り、さらに近隣の人たちとグループやコミュニティを作る。これらのコミュニティが経済活動を行う場合、それらは会社などの組織形態をとる。そしてその組織としての最も大きなものでありまとまりの良い物としては国家がある。

和辻哲郎の「倫理学」では、人と人の関係がどうなっているか、どうあるべきかを、まず二人という最も基本的なそして最小の人間関係組織である夫婦から説き起こしている。

次にそこに子供を含めた家庭に話題を拡張する。さらにそれを、血縁をベースとした人間関係である親戚関係や、地域性をベースとした人間関係である地域社会へと広げて行く。そしてさらには会社組織、国家へと関係性に関する著述を広げて行く。

この論理の展開そのものは適切であり異論がある訳ではない。さらには彼の文章が比較的平易に書かれているのと、「古寺巡礼」「風土」などでおなじみの彼独自の美しい文章のおかげで、通常の哲学書を読む場合に比較するとずっと楽に読み進む事ができる。

哲学書というと、一般の書籍のように気軽に手に取れる物ではない。普通はそれなりの覚悟をして、書斎などで気持ちを集中して読む必要がある。それでも難解なために眠くなったりするというのは、哲学書を読んだ人なら誰でも経験があると思われる。

しかし和辻哲郎の「倫理学」の場合は、それほどの気構えを持たなくても比較的気軽に読む事ができる。乗り物を待っている時や電車の中などで少し時間がある場合にも、取り出して読む事にあまり抵抗はない。

その意味では、哲学書倫理学書としてはもっと読まれても良い本のはずである。しかし前回も書いたように、「古寺巡礼」「風土」などの和辻哲郎といえばすぐ人々が頭に思い浮かべるような著名な著作に比較すると、あまり知られていないし当然あまり読まれていないのではないだろうか。

その大きな理由は、これまでの西欧の哲学の歴史との関係性が明確でない事があげられるのではないだろうか、というのが私がこの本を読んで持った最初の感想である。

西欧の哲学の歴史は上にも書いたように、人とは何か人はどうあるべきかを考察して来たといえる。それらは「我」「自分」を対象としてどこまでも深く考察を進めてきたのであるが、一方で人間関係というのはあまり考察の対象になってこなかった。

それはなぜか。いってしまえば自分・我の意識・意志を自省的に深く考察する事は自分で行うことができるが、それを自分以外の他者にどのようにして拡張するかが困難だからではあるまいか。

自分と同様に他の人が意識や自由意志を持っている事は自明のように思われる。しかし意識というものが自分の持つ意識つまり自意識に限定されているため、他の人が意識を持つか否かという問題を自分の意識から出発して考察できないところに問題があるのではないか。

つまり自分から出発して他者へ考察を広げるためにはある種の思考的ジャンプが必要なのであるがそれにはどうすればいいのか。この問題を和辻哲郎の「論理学」に私は期待したのであるが、彼はそれには直接答えてくれていないのである。

(続く)