シンガポール通信ートップに求められる「倫理学」

和辻哲郎の「倫理学」を読み始めた事を前回記したが、チェックしてみると2月20日の事である。すでに2ヶ月近く経っている。

その間私は、シンガポールで開催されたバーチャルリアリティの国際会議のオーガナイズに忙殺されており、「倫理学」のほうはご無沙汰したままであった。またそうしているうちに、東北地方で大地震が発生し、それに伴う津波による東北地方の未曾有の被害や福島の原子力発電所のトラブルなどの極めて深刻な事態が発生した。

まだまだ日本では被害の全貌を把握したり、被災者の対応に追われている段階で、復興に取りかかるには時期が早すぎるという状態であろう。また福島原発に関しては、まだまだ事態は収束というにはほど遠く、最悪の事態の発生を防ぐのに追われている段階であろう。

このような段階で最も心しなければならないのは、現場の活動の邪魔をしない事ではあるまいか。首相を始め要人が被災地を次々視察に訪れているというニュースを聞くと、それこそ現場の活動の邪魔をしないでくれといいたくなる。

具体的に現地に行って被災状況を見ないと判断できない事柄があるならばいいだろう。しかしながら、首相はじめこれらの人々が現地に行って何かを判断し、それによってその後の被災者への対応が良くなったケースがあるのだろうか。そうは思えない。現に、首相の福島原発視察への対応のために、原発事故対策に遅延が生じたといって非難されているではないか。

現地に行って視察をする事により、本人が責任者としての仕事をしたつもりになっているというのが正直なところではないだろうか。はたまた、周囲から責任者としての仕事をしている事を評価されたいというのが本音であろう。

「震災対策委員会」「復興検討委員会」などのたぐいを次々立ち上げているのも、同様な対応であろう。検討のための委員会を立ち上げることで仕事をした気になるというのは、私も含め企業勤務経験のある人ならだれでも経験のある事ではあるまいか。

かくいう私自身も、NTT勤務時代を思い出すと同じような事をしていたわけで、あまり首相ばかりを非難する事はできないかもしれない。部下が問題点を提起して来たときに、部下と話し合いをしただけで何か対応をしたかのように思ったり、具体的なプロジェクトやビジネスの計画を立てなければならないときに、自分で考える前に関係者を集めて会議を開くことで、自分が何かをしたつもりになったことは数多い。

しかし一国の首相がそれで良いのかというのが、一般の人々の思うところであろう。この手の事は別に日本の首相に限らず、米国のオバマ大統領にもいえることであろう。オバマ大統領が「チェンジ」を合い言葉にして大統領選挙に打って出た段階では、この言葉はいかにも新鮮に響いたのではあるまいか。それは、これまでの米国と異なる何か全く新しい方向性、政策を取り入れてくれるような予感がしたからではないだろうか。

しかしながら、彼が大統領になって何かチェンジがあっただろうかと言われると、はなはだ心もとないのではあるまいか。いきなり大きく舵を取る事は困難としても、何か新しい方向性を米国の政策に見いだしたいと思うのであるが、なかなか困難である。心なしか彼の演説もかっての輝きを失っており、同じ言葉の繰り返しになっているような気がするのは私だけだろうか。

もっともこういう風に考えるべきかもしれない。つまり菅首相もさらにはオバマ大統領も基本的には普通の人なのではないか。たまたま運がよかったとか演説がうまかったことにより首相や大統領の職についているだけで、彼等に普通の人間とは異なる何か特殊な能力を期待する事が間違っているのではないか。

もっというと次のような事なのかもしれない。つまり民主主義というのは、人々が同等の能力や判断力を有し、職業に上下の差がなく、そして話し合いと合意により全体として組織や国家を運営して行く組織運営形態だと考えられるのではないか。

これは別の形でいうと、古代ギリシャ都市国家がそのような政治形態をとっていたといえる。さらには古代ローマも当初はそのような政治形態をとっていたといえるだろう。ローマ皇帝は人々から統治権を預けられた存在に過ぎず、能力がないと判断されると暗殺などの手段によって交替させられた。

そして現在のネットワークがめざしている社会もそのような本当の意味での平等が実現されている社会であろう。という意味では、皮肉っぽい言い方かもしれないが、首相が普通の人であってそれでなんとか政治が行われている日本は最も進んだ民主主義社会だといえるのではないだろうか。