シンガポール通信ー京都の桜

4月7日から10日まで帰国していた。ちょうど京都の桜が満開の時期である。特に満開の時期に合わせた訳ではなく、4月7日に大阪で私の関係している研究会が開催されたため、それに出席するのが主たる目的である。それがちょうど桜が満開の時期にぴったりと重なった訳である。

例年3月末の桜が満開の時期には帰国して花見をする事にしているが,今年は震災の影響もあり日本は祝い事自粛ムードなので、花見だけのために帰国のつもりはなかった。それが例年より遅い開花のおかげで、たまたま満開の時期と研究会参加のための帰国が重なった訳である。

昔は私自身は桜の花の華やかさにある種の反発を覚えて、花見などというチャラチャラしたものをするのを拒否していた時期もある。しかしながら、やはり満開の桜の並木というのは日本人の心をとらえるものらしい。

特に日本人が桜の花に引かれるのは、その満開の時期の短さや散り際の潔さのようなものにであろう。よく見ていると、一カ所の桜が満開になりそれを保っているのはほとんど1日だけのようである。満開になりそれを誇らしげに見せると次の日にはもう散り始めている。もちろん長い目で見れば1週間程度は楽しむ事ができるのであるが、このいかにも短い満開の時期が日本人の「盛者必衰」「万物流転」などの自然観・人生観とマッチするのであろう。

研究会が終わった後、早速京都の高瀬川沿いの木屋町通りを歩いてみた。もうほとんど満開である。しかし花木の夜の割には人出が少ない。いつもの花見の時期だと高瀬川沿いの狭い歩道は向こうから歩いてくる人とすれ違うのに大変であるが、今回は時々すれ違うという程度なのである。


高瀬川沿いの夜桜の前で。


さらに、木屋町通はタクシーや他府県の車が引き起こす渋滞で車が動けないのが普通であるが、今回はタクシーが通り過ぎる程度である。しかも客があまりないのか、歩いている人をみかけると近寄って誘いをかけるようにしばらく並行して動くようなそぶりをする。そしてこちらに乗車意志がないとわかると通り過ぎて行く。

どうも花見自粛モードはかなり浸透しているようである。現実には東北の地震の直接影響は京都には及んでいないのであるが、このあたりもいかにも日本人らしい行動様式なのかもしれない。それと共にこれもいわれているように外国人の少ないのも気になった。

最近の観光シーズンにおける京都の外国人の多さは、こちらが驚かされるほどである。どこへ行っても欧米人に加え、韓国・中国・台湾や東南アジアからの観光客があふれている。タクシーの運転手にいわせると特に中国からの観光客が増えたとの事である。

ところが今回の震災で、外国からの観光客が激減したとのことである。関西地区では震災の影響はほぼないのであるが、狭い日本、海外から見ると日本中が震災の影響を受けていたり、どこへ行っても放射能の影響を受ける可能性があるように見えるのだろう。

金曜・土曜は用事があったので花見をする事はできなかったが、日曜に再び高瀬川沿いの桜を見物に出かけた。といっても、これは知り合いのニコライ君の結婚式の披露宴に出席のためである。ニコライ君はかって京大の土佐先生の研究室でしばらく研究員として働いていたのでその時に知り合った。

現在は日本人の奥さんとフランスに住んでいるが、結婚式は日本でやりたいという奥さんの要望で、京都で結婚式と披露宴をする事になったとの事である。その案内を受け取っていたはずであるが、すっかり仕事の事で忙しくて忘れていたのであるが、これもたまたま帰国した時期が披露宴の時期に重なっていたというわけである。


ニコライ君と奥さん。



ニコライ君と土佐先生と私。


披露宴出席の後で再び木屋町に沿って下り、花見を楽しんだ。さすがに木曜に比較すると人では多いのであるが、前に進めないというのとはほど遠い。まあゆっくり花見を楽しめるといえばその通りであるが、やはりある程度の人ごみの流れに乗って桜を見物するのが花見だろうし、人が少ないと何となく満開の桜も手持ち無沙汰のように見えてしまう。


日曜の高瀬川沿いの桜並木。