シンガポール通信ー震災と日本人の精神性2

前回は、今回の震災の被災者が水や食料や医薬品の不足などにもかかわらず、暴動などに走ることなく規律のとれた行動を取っている事に対して、海外から賞賛されている事を述べた。そしてその源泉となる考え方が、老荘思想や仏教思想に基づくものだろうという事を指摘した。

もう1つ大きなものとして、孔子を始祖とする儒教の教えがあげられるであろう。「徳」を人が身につける最上位のものであるとし、具体的には人に優しくすることを意味する「仁」、親に尽くす事を意味する「孝」、主人に仕える事を意味する「忠」などを人が身につけるべきものであるというのが儒教の中心的な教えである。

個別に見ると古くさい気もするが、全体としてみたときにそれほど違和感がなく受け止められるのは、やはり儒教の教えが私たち日本人に受け入れやすく、そのためそのような考え方がある意味で身に付いているからであろう。

この儒教の教えだけを取り出せば、それはソクラテスプラトンギリシャ哲学と似たものを持っており、人間の考える事は似たようなものだと思わせるのであるが、その儒教の教えが老荘思想や仏教思想と結びついて日本人独特の人生観・死生観を生み出しているのかもしれない。

たとえば「義理」「人情」は儒教の本来の考え方というよりは、それが仏教思想・老荘思想と混合されて出来上がった日本独自の考え方かもしれない。しかしそれが日本独自のものであり他に例のないものであるというのは同意しがたい。

例えばかっての西部劇では、まさに義理・人情と同じものを見かけなかっただろうか。流れ者のシェーンが世話になった牧場主の敵を倒し一人で去って行くシーンは、まさに木枯らし紋次郎が一人去って行くシーンと重ならないだろうか。

またフランス映画「さらば友よ」のラストシーンで、アラン・ドロンとチャールス・ブロンソンがすれ違う際に、お互いが仲間である事をまわりに悟られる事なくアラン・ドロンが何気なくチャールス・ブロンソンのタバコに火をつけてやる場面は、まさに義理と人情を地で行っている場面と思われないだろうか。

他にも、シェークスピアの「人生は劇場、人は役者」という有名な台詞も、日本人にとっては「人生50年、下天の内をくらぶれば....」とか「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などの、人生の短さやはかなさを述べた文と共通点があることは疑いがないだろう。

つまり、日本人独自の人生観・死生観、そしてそれにもとづいた災害時の行動は、確かに日本人において優れてみられる行動様式かもしれないが、他の国民で見られない世界唯一のものであるというのは、いいすぎなのではないかと思われる。

第一、日本人もつい数十年前までは海外旅行に行くと、「旅の恥はかきすて」とばかり飛行機の中で暴飲したり大声で歌ったり、はたまた同じ行為を旅先のレストランで行ったりしたではないか。また観光地では、ガイドが制止するのも聞かず立ち入り禁止区域に入って記念写真を撮ったりという行為が見られたではないか。

電車が到着する際に行儀よく扉の前に並ぶという行動も比較的に新しいものであって、大阪などではつい最近まで、ホーム上に雑然といた人たちが電車が到着するとドアに殺到するという光景が普通であった。現にいまでも、列を作っている人たちを無視するように割り込んでくる中年のおじさん・おばさんがいることは否定できないであろう。

これはどう考えたら良いのだろうか。日本人自身の行動様式が急激に洗練されて来ているのだろうか。どうもそうでもないようである。よくいわれるように、日本人は村社会人間であり、村というコミュニティの内部では身につけた儒教的、仏教的、はたまた老荘的考え方に基づいて行動するが、コミュニティの外では「旅の恥はかきすて」となってしまうのであろう。

ということは、日本人にとっては日本がコミュニティの内部であったのが、海外旅行に行きなれるに従い、外国もコミュニティの定義に含まれるようになって来て、海外においても国内と同様の行動をするようになったという言い方の方が正しいのだろう。

さて最初の疑問に戻ろう。日本人の災害時などの非常時における行動様式はたしかに洗練されたものではあるが、日本人にしかできないというものではあるまい。それが日本人にだけしかできないというように思われるのはなぜだろうというのが、私の持っている疑問である。これは少し考える必要がある事柄かもしれない。