シンガポール通信ー震災と日本人の精神性

今回の東日本大震災に際して被災者が示した行動に対して、海外から多くの賞賛が寄せられている。今回はこの件に関して考えてみよう。

マグニチュード9.0の大地震という空前の非常時にも、被災者が忍耐を持って整然とした行動をとり、水の補給に何時間も文句を言わずに並んだり、被災者用にあてられた体育館などのプライバシーもない空間で被災者同士が助け合って暮らしている様子などをさして、海外のメディアなどが賞賛のメッセージを送っているというのである。

たしかにあのような状況下でも、盗み・窃盗・略奪などの犯罪が生じているというニュースは聞かないし、被災者同士の争いの報道もされていない。しかしながら、これは特異なことなのだろうかという疑問を持たないだろうか。

私自身もこの点を確かめるため、シンガポールにおいて同僚やタクシーの運転手など日常出会う多くの人たちの意見を聞いてみたが、人々が一様に同様の反応を示すことに驚かされた。いわく、「あのような状況下では、とても自分たちにはあのような振る舞いは出来ない」「震災などの非常時には、人間は獣的な行動に出やすいのに日本人はそうではない」「あのような振る舞いが出来るのは日本人だけである」などの意見が返ってくる。

私自身は人間の行動様式は文化度の高さと関連していると思っているので、「あのような対応をするのは日本人だけではなくて、ヨーロッパなどの文化度の高い地域の人々も同様の行動をとるはずである」と反論するのだが、「いやいやあれは日本人にしか出来ない」というような返答が返ってくる。

これは行き過ぎると、日本人特殊論になる可能性もあるので注意は必要であるが、ともかく最近あまり注目されたり賞賛されたりすることのない日本、日本人に対しての賞賛と考えると悪い気はしない。ただしそれが日本人特有の行動様式であるという意見に対しては反論したくはなるが。

ともかくも非常時にも人間としての尊厳を損なうことなく整然とした行動がとれるというのが、どこから来ているのかを考えるのは意味のあることであろう。まず第一に考えられるのは、このような大災害に対する受容・忍従の気持ちである。あのような津波に対して十分な抑止力を持つ防潮堤などを建造してこなかった政府、地方自治体などへの怒りの声が上がっても良いと思われるが、あまりそのような声は聞こえてこない。

それよりも、「マグニチュード9.0という考えもしなかった巨大地震であるから天災と考えて受け入れるしかない」という考え方の方が支配的なのであろう。その底にあるのは、人間を自然に対立するものとする考え方ではなくて人間が自然の一部であるとする「老荘思想」などに代表される中国古代の哲学思想があるであろう。

また、生と死が相反するものではなくていわば隣り合わせのものであること、常に死を心の中で意識しておくべきことを説く、仏教思想の影響も大きいであろう。生と死が隣り合わせであると言う考え方は「輪廻思想」などに発するものかもしれないが、日本ではそれがすべてのものは過ぎ行き滅び去るという「無常観」等の考え方に発展して来た。

いずれにしても、老荘思想、仏教思想共に日本古来のものではなく、中国から入って来たりまたインドから中国を経て入って来たものである。従って本来はアジアの国々、特に中国の人たちとは十分共感でき合う考え方ではないだろうか。
今回の震災に際しては、その後しばらくの間はミーティングなどで出会う人の大半や海外からのメールの大半からもらうのは、まずはこの震災に関しての同情や見舞いの言葉であった。

あまりにも同情されるので、時には「日本人にとっては生と死は隣り合わせのものなので、それほど人々が打ちひしがれている訳ではない。むしろこれまでの日本は先進国としてあり余る物に囲まれ一種の怠惰状態にあったので、今回の震災は日本人が目覚めるきっかけになるかもしれない」といってみたりした。

しかしながら、相手がきょとんとした表情をすることが多い。どうも「生と死が隣り合わせ」という考え方は、多くの人たちにとって理解しにくいもののように見受けられる。しかし再度言うけれども、そのような考え方は日本特有の物ではないはずである。

(続く)