シンガポール通信ー東日本大震災と映像の力2

東日本大震災において、津波に流される家や車の映像が極めて強いインパクトを人々に与えたこと、そしてそれは映像がある状況において持つ強い力によるものであることを書いた。このことは多分あの映像を見た大多数の人が賛成してくれるであろう。さらにその事を強く思ったのは、あの震災が起きてからしばらくの間メールの着信が激減した事である。

当時はちょうど私が委員長となって開催するIEEE VR2011の1週間前であり、日本はもとより世界各地にいるこの会議の委員の人や参加予定の人からのメールがひっきりなしに飛び込んで来て、その対応に1日中追われていた頃であった。まさに朝から晩までメールの送受だけで1日が過ぎて行くという日々を送っていた訳である。

ところが、地震が起こった11日の夕刻から、飛び込んでくるメールがぱたりとなくなった。もちろん全くなくなった訳ではないが、それ以前の状態からするとメールが来なくなったという言い方の方が正しいだろう。

そしてそれはそれに続く土曜・日曜の間もそうであった。不気味なほどメールが来ないのである。それはなぜか。多分皆さんテレビに釘付けになっており、メールの送受どころではなかったのではあるまいか。

私自身もそうであった。私の住んでいるマンションでは日本のテレビ番組は見れないし、シンガポールのテレビ番組は正直言ってあまり面白いものではないので、普段あまりテレビは見ないことにしている。しかし、さすがにその週末はニコニコ動画NHK(最初は他にも民放が1社)がリアルタイムでテレビ番組を流していたので、それに見入っていた訳である。

金曜から日曜にかけてのNHKは24時間態勢でずっと震災のニュースを流していた。そして私はそれを金曜の夜から日曜にかけて数時間の寝る時間は別にしてずっと見ていた。ともかくも目が離せないのである。多分日本の多くの人はそうであったと思われる。

そしてシンガポールのチャンネル・ニューズ・アジアもそうであった。普段はあまり日本のニュースは流す事をしないこのチャンネルも、さすがに今回は土曜から日曜にかけてずっと日本の震災のニュースを流していた。多分他の国々でも同様の状況であったのではないだろうか。

そしてこのことは、テレビというリアルタイムで映像を流すメディアが、このような災害などの際の報道メディアとしては、やはり群を抜いて大きな力を持っている事を示しているのではないだろうか。ネットワークメディアの力についてはまた別に論じたいけれども、今回はリアルタイム映像の持つ力というものを再認識させられたというのが正直なところである。

1995年の阪神・淡路大震災の時は、当時の村山首相の震災への自衛隊出動などの初期対応が遅れた事を強く非難された。これは社会党の村山首相が、野党時代には自衛隊に反対していた事もあって、自衛隊を使う事を嫌ったからだと後で伝えられた。

それはそうなのかもしれないが、前回も述べたように地震発生直後のヘリからの映像を見れば、それが尋常ではない災害である事、それへの対応はある意味で戦時体制に近い体制が要求される事、好き嫌いを超越してすぐさま自衛隊に出動を命ずべきであること、などは直感的に分かる事である。それができなかったという事は、村山首相も含めて当時の政権中枢の人たちが映像の力を理解できていなかったとしかいいようがない。

福島原発に関しても同様の事が言えるであろう。福島原発の1号原子炉〜6号原子炉を格納している建物のうちいくつかの建物の外壁が爆発で破損した件に関しては、あれはあくまで外壁であって内部の原子炉が破損したわけではないと当時は国内では報道されており、国民はある程度納得していた。

しかしながら、海外での捉え方はかなり違っており、あの爆発があたかも原子炉に損傷が生じたかのような報道のされ方がされていた。そしてその際に外壁が爆発した映像を何度も流しているのである。大きな爆煙が立ち上る爆発の瞬間の映像は、たしかに見ている方からすると恐怖感が増すであろう。これも映像が持つ力の別の例であろう。(もっとも結局は炉心の溶融という重大な事態が生じていた事が後で明らかにされたけれども。)

この関係で言うと、現地視察というのも別の議論の材料になりうるだろう。菅首相が震災の発生翌日に原発を視察した事が、その準備のため原発事故の対応が後回しにされたと非難されている。これはどちらが正しいのだろうか。

映像の持つ力からすると、現地を訪問して実際に被害の状況を見る事は意味がある事だという議論が成り立つかもしれない。しかしながら、映像は一部のみを見ても全体を把握する事は困難である。阪神・淡路大震災の場合も今回の東日本大震災の場合も、その震災の大きさを理解させてくれたのはヘリからの映像などの少し俯瞰した映像である場合が多い。

単に現地一カ所のみ訪れても、そこで入手できるのはその場だけの情報である。むしろ全体を統轄する立場の人間は、種々の情報を入手すると共に想像力を働かせて、実際に起こっている事の全体像を把握する事が求められるのではあるまいか。震災が起こったからといって、現地に行けば全体が把握できるというものではない。

その意味でこの非難はあたっていると言えるだろう。菅首相はむしろ官邸にとどまって各方面から入ってくる情報を統合し、何が起こっているかを理解し何をすべきかを判断・指示すべきであったのではないだろうか。