シンガポール通信ー和辻哲郎を読む

先週から和辻哲郎の「倫理学」を読み始めた。まだ読み始めたばかりであるが、和辻哲郎の他の著書との関係で私の感想を記していきたい。和辻哲郎と聞くと大半の方は彼の「古寺巡礼」や「風土」を思い浮かべるだろう。

「古寺巡礼」は彼がまだ東大を卒業してすぐの頃、奈良の古寺を友人達と共に巡り、その際に出会った仏像の印象を記したものである。豊かな感性と鋭い直感に基づき、かつみずみずしい文体で描かれた仏像達は、私たちに忘れがたい印象を与える。かっては彼の本を携えて奈良の古寺巡りをする学生達が絶えなかったというし、現在でもそうかもしれない。

また「風土」は、私たちの住む自然環境を単なる自然環境ではなくそこに住む人たちの文化さらには精神構造を規定するものとして風土と呼び、世界の風土をモンスーン、砂漠、牧場の三類型に分類してその特徴を記述したものである。この三類型への分類は、彼が欧州に留学した際の途中の船旅や留学先での経験をもとに、さらに彼の知識と直感に基づいて行ったもので、ここでも彼の鋭い直感が大きな働きをしている。

「古寺巡礼」を読んだ人は彼を文学者であると思ったであろう。私自身も和辻哲郎は文学者であると最初は思った。また「風土」を読んだ人は彼を文学者か評論家、もしくは文化人類学者と思ったのではないか。いずれにしても彼の文体は独特の魅力を持っており、読む人を引きつける力を持っている。

しかし、彼が京都大学東京大学倫理学の教授を勤めたことからわかるように、 彼の本来の専門は、哲学・倫理学である。しかし彼は哲学者、倫理学者として一般の人々に認識されているだろうか。「古寺巡礼」「風土」が多くの人々に愛され読まれており、大半の一般の人々が和辻哲郎の名前を知っているのに対し、他の彼の著書はあまり読まれていないのではないか。そのせいか、「古寺巡礼」「風土」以外では彼が話題になることはほとんどないといっていいのではないか。

私も彼の他の著書は最近まで知らなかった。東洋哲学・西洋哲学の歴史を少しずつ勉強している過程で、彼の「倫理学」を知って買い求めたわけである。Wikepediaには、「倫理学」が近代日本における最も体系的な哲学書の1つであると記述してある。これは読まない訳にはいかない。

しかしそれと同時に、「古寺巡礼」「風土」があれほど多くの人々に愛され親しまれているのになぜ「倫理学」があまり知られていないのだろうという疑問がわいてくる。彼が哲学者・倫理学者であるならば、これこそが彼の主著となるべきものであって、なぜ主著が知られずに、むしろ若い頃に書かれた著作が現在も彼の代表作として知られているのだろう。このような疑問を持ちながら読み始めた訳である。

倫理学とは何だろう。そして倫理学と哲学は何が違うのだろうか。まずこれが最初の疑問だろう。私は全くこの方面の素人であるから学問的に正確な答えを持っている訳ではない。しかしながらこれまで読んできた哲学書などをもとに答えるとすると、次のようになるだろう。

「哲学は人とは何かを追求する学問である。これに対して倫理学は人はどう行動すべきか、もっと言うとどう生きるべきかを追求する学問である。」こう言って良いのではないだろうか。

このように定義すると、東洋哲学、特に孔子老子荘子などに代表される中国哲学は哲学というより倫理学的要素が強いといっていいであろう。そこで問われているのは、人とは何かを深く考えることではなく、人が周囲の自然はさらには社会・国家とどのように関わっていくべきかということであろう。

これに対し西洋では、デカルトの「我思う、故に我あり」に端を発した長い哲学の歴史の中で問われ続けてきたのは、人とは何かという問いである。デカルトが、考えるという行為を人のすべての存在の根幹においたことに始まり、西洋哲学は自我・意識、そして自由意志などの問題を深く追及してきた。これが西洋の個人に最大価値をおく個人主義を育てて来たことは間違いないだろう。

しかしながら、このブログでも何度も取り上げたが、ソクラテスプラトンに代表されるギリシャ哲学にさかのぼると、むしろそこにあるのは人は何かという問いかけではなくて、人はどう生きるべきかという問いである。特にプラトンは、ギリシャ都市国家と個人との関係を深く考え、人が国家にどのように貢献すべきかを説いた。その意味では、ギリシャ哲学は中国哲学と同様に倫理学的な側面を強く持っているといっていいのではないか。

日本の近代哲学の中で最も有名なのは、西田幾多郎の「善の研究」であろう。この著書は、名前が広く知られているにもかかわらず難解であるため大半の人々は読んだことがないという意味でも有名である。私自身も読んでは見たもののとても理解できたとはいえない。しかし、彼の考え方が西洋哲学の流れを汲んでおり、それと仏教的哲学を融合しようとしているということは理解できる。その意味でこれは「哲学書」である。

さてそれでは、このような西洋・東洋の哲学・倫理学の流れの中で、和辻哲郎はどのような立場から「人とは何か」もしくは「人はどう行動すべきか」という問いに立ち向かっているのだろうか。

(続く)