シンガポール通信ー相撲界の八百長問題を考える2

よく知られているように、ロジェ・カイヨワは彼の有名な著書「遊びと人間」の中で、エンタテインメントすなわち遊びを、「アゴーン(競争)」、「アレア(さいころ)」、「ミミクリ(物まね)」、「イリンクス(めまい)」の4種類に分類した。この事に関しては、以前に相撲界における野球賭博の問題が出て来たときにも指摘したのでおぼえておられる方もいらっしゃるだろう。

また同じような問題にしかも同じように相撲界に問題が起こったときに言及するのは残念である。しかしながらそれは逆に言えば、相撲界がそれなりの長い歴史を持ち、いわば日本文化を代表するエンタテインメントになっているからこそ生じてくる問題なのだという事もできるだろう。

ともかくもこの分類学に基づくと、明らかに相撲はアゴーンに属する。アゴーンには2種類ある。1つは100m走・ボクシングなど人間の身体能力を鍛え上げ、それによって相手に勝つ事をめざす遊びである。もう1つは碁・チェスなどのように人間の精神能力を鍛え上げ、それによって相手に勝つ事をめざす遊びである。

当然であるが、身体的もしくは精神的な能力を鍛錬によって鍛え上げて相手に勝つ事がこの遊びの目的であるから、そこに事前の談合による勝ち負けの操作を入れてしまうと、勝ち負けそのものの意味がなくなってしまう。そのことはさらに、勝ち負けを中心的な価値観におくアゴーンという遊びそのものの意味がなくなる事になる。

これがアゴーンにおいて八百長が極めて厳しく糾弾される理由だろう。その事自体はその通りで別に異論がある訳ではない。さて問題は、相撲というものが純粋にアゴーンに属するものだろうかということである。

前回も指摘したが、元々相撲というのは神事と深く関わっている。なにか公的な祝い事などがある場合に、その余興として見せ物に供したものである。したがって、かっては力士が力を尽くして相撲を取ることその事を人々は見て興じたであろうが、勝負の結果そのものにはそれほど執着しなかったのではないかと憶測される。

その意味では、相撲は純粋なアゴーンではなくて勝負事と芸能の入り交じった性格を持っていたのではないか。カイヨワの分類でいうと、アゴーンとミミクリの両者の性格を持ったものではなかったのだろうか。そのように考えると、相撲における八百長というものが少し違った意味を持ってくる事になる。

見せ物、いわゆる芸能の側面を持っているとすると、それは歌舞伎や他の演劇と同様の意味合いを持つ事になる。演劇においては、事前にストーリー展開や役者の仕草・台詞のやり取り事細かく決めておく。それはあくまで見せ物としての演芸を観客に喜んでもらうためである。

相撲の勝ち負けそのものは、丸い土俵の上で相手を倒すか土俵から相手を外に出すという単純なもので決まるが、勝負を挟んでその前後にいろいろと細かい形式が取り入れられている。まず呼び出しが東西の力士を呼び出す。呼ばれた力士は土俵上で柏手を打ち、何度か仕切りと呼ばれる準備運動のようなものを行う。仕切りに際しても塩を撒くという手順が入る。

これらの手順は相撲という勝ち負けを決する勝負事に対する期待を高める意味を持っているとはいえ、その多くは形式化したものであって、他のスポーツにはここまで形式化した多くの手順を要するものはないのではないだろうか。

相撲を勝ち負けだけを観客に供するスポーツとしてだけではなくて、その前後のこれらの言ってみればパフォーマンスの連続を見せる芸能と考える事はできないだろうか。これら全部が相撲を観戦する楽しみだとしたら、単に勝負にのみ拘泥するのは相撲の楽しみの一部のみを見ている事にならないだろうか。

たしかに、近年相撲はスポーツとしての側面を重視するようになっている。それは相撲を勝ち負けを中心とした勝負事と見るという意味である。そうすると前後の手順は不要と見なされる事になる。ダイジェストと称して勝負の部分のみを見せるテレビ番組がある事はそれを示している。

しかしその長い歴史の中で、勝負事と同時に芸能としての側面が相撲界の深い部分に根付いて来ているのではないだろうか。たしかにその世界の中では幕下から十両、幕内さらに三役と上がって行く過程は極めて厳しいものだろう。

幕下と十両では待遇には天と地のような差があるといわれている。しかし私たちはそれを直接目にする事は少ない。私たちが目にするのはあくまで土俵の上の勝負事とそれを支えている形式美である。表の美しさと伝統を維持するために、その裏で行われている事の一部に星のやり取りがあるがあるとしても、それは見えない限りある程度許されるものなのかもしれない。

だから私たちはこういうべきなのかもしれない。「私たちが見ているのは表に出た勝負事を中心とした相撲である。それは伝統にあふれ美しい。その裏側でそれを支えるための多くの努力が払われている事は知っているが、ダーティな面はないと信じたい。表を楽しむためにも裏の面を見せないよう極力努力してほしい。それが伝統ある相撲道というものであろう。」

相撲協会が今回の事に関して、「それは一部に過ぎない、過去にはなかったと断言できる」と言い続けているのは、いわば上のような暗黙の要請に対して誠実に答えているともいえるのではないだろうか。