シンガポール通信ー相撲界の八百長問題を考える

現在相撲界(角界)が八百長問題で揺れている。これは、携帯電話で勝ち負けを買ったり売ったりした証拠のメールが残っている事が明らかになった事に端を発している。とうとう大相撲春場所がキャンセルという事態にまでなってしまった。

マスコミで表向き流されるニュースを見ていると、ほぼすべてが「あってはならない事が起こった」、「絶対許されるべきではない」という論調になっている。あたかもこれまで相撲界では八百長という事態は全く起こらず疑惑すらも生じていなかったのに、突然それが明るみに出されたため驚きと怒りが国民の中にわき起こっているという書き方である。

しかし、考えてみればこれまでも相撲における八百長問題はいろいろと取りざたされ、週刊誌等に八百長の暴露記事などがたびたび載ったのではなかったか。その度に相撲協会八百長は絶対ないと強硬に否定して来たのではなかっただろうか。

今回部分的にせよそれを認めざるを得なかったのは、「証拠」が残っているからである。しかもそれが携帯電話とそれを使ったメールという、最新のメディア機器、メディア形態によって証拠が残されたというのは何とも皮肉である。

元々メールというのは、平文をそのまま送っており簡単に見る事ができセキュリティの低いメディアである事が知られていたが、その手軽さのためか今回の事態に関連する相撲取りが安易に使ってしまったというのが本当のところであろう。

重要な事特に秘密に属する事はメールで送ってはならない事はある種の常識である。私たちもクレジットカードの情報などをメールで送ってはならないという事は常識として知っている。まあ相撲取りの人たちはその意味ではメディアリテラシーがなかったと言えるのではないだろうか。

こう書いてしまうと、八百長角界で蔓延しており今回見つかったのはその氷山の一部であるという言い方をしているようにとられるかもしれない。さすがにそれを認める事は相撲というビジネスそのものの危機を招く事にもなるので、 相撲協会は必死にそれを拒否しようとしている。そして、 今回の八百長問題が証拠が見つかった例だけであって、過去には全くなかったと結論付けようとしているように見える。

しかしそれが一種の方便である事は、上に述べたように過去何度も八百長疑惑があったり、週刊誌に暴露記事が載ったりした事からわかる。少なくとも疑わしい点はこれまでもあったのであるが、相撲協会はそれに目をつむって来たというのが本当のところだろう。

しかしさらにもう一段論理を進めると、本当の問題として、「八百長は絶対悪である、したがってそれはあってはならない」という価値観を相撲協会が持っている(少なくとも持っているように見せている)ところにあるのではないかということが明らかになってくる。これは相撲界に限らず、先に述べたようにマスコミの論調からしても、マスコミ、一般人ともそのように思っていると考えていいだろう。

しかし本当にそうだろうか。「八百長とは何なのか、本当に相撲にとって八百長は悪なのか」は角界はもとより、マスコミ、一般人もまじめに議論すべき点なのではあるまいか。残念ながら、その点が全く置き去りにされていないだろうか。

相撲はその本来が神事に基づく催し物であって、それが時代が下るに従って勝負事になって来たというのがその歴史である。もっと言うとそれは見せ物、パフォーマンスであって、観客からするとエンタテインメントという性格を持っている。

エンタテインメントの役割は何か、それは観客をおもしろがらせることにある。すなわち見る側が楽しめ喜ぶことができれば良い訳である。八百長を事前に演技者同士が打ち合わせを行った上で観客に演技を披露することと、解釈すればそれは他の演芸、歌舞伎や演劇の世界では通常行われて来た事である。もっというと、いかにして事前に綿密な打ち合わせを行い、それに従って演技を行い観客を喜ばせるかというのは演芸においては最も重要な点であり、演技者やディレクタが心を砕くところだろう。

相撲が他の演芸と異なるのは、勝負事がそのエンタテインメント性の中心にある事である。勝負事とは勝ち負けが最重要な事を意味している。勝ち負けで観客を喜ばせる事が勝負事の中心であるからこそ、その勝ち負けのプロセスに事前の取り決めを入れてはならないというのが八百長が悪だといわれるゆえんだろう。

(続く)