シンガポール通信ー京大病院にて

妻が2月1日から京大病院に入院しているので、1週間帰国して毎日見舞いに京大病院を訪れている。

妻は、昨年の秋に転んだ際に前十字靭帯と半月板を損傷した。プロ野球選手などスポーツ選手に多い怪我である。まあサポーターをした状態で普通に歩くことは出来るのであるが、走ったりその他のスポーツをすることは出来ない。やはりしっかり対応をしておいた方が良いだろうということで、冬の比較的暇な季節に1ヶ月ほど入院して手術とリハビリを行うこととなった。

もちろん私自身が1ヶ月間つきっきりというわけにはいかないが、手術とその後数日は付き添っていた方が良いだろうということで、帰国して毎日見舞いをしている訳である。

京大病院は、私が京大の学生時代だったころは何度もそばを通ってはいたが、中に入るのは今回が始めてである。ともかくも大変明るく清潔なのに驚かされた。入ったところにはドトールのコーヒーショップがあるし、地下にはローソンが入っている。また、食事のためには街中のレストランと比較しても引けを取らないレストランがある。

内部が明るく清潔だということは、外部との違いが少ないということである。もっというと病院の入り口が内部と外部を隔てる境界になっているというよりは、デパートやホテルの入り口に近い感覚で、特に違和感なく通り過ぎることが出来る。

かっての病院はそうではなかった。入り口を入るとそこは外部とは全くの別世界、暗く陰気なそして同時に厳粛な雰囲気が支配していた。いってみれば病院の外側が現世であるのに対し病院の内側は冥界とでもいえる異様な差を感じさせられた。そして入り口はいわば現世と冥界をへだてる扉とでもいったらいいような雰囲気を感じさせた。

もちろん、車いすや松葉杖をついて歩いている入院患者や待合室の妙に静かな様子がそのような雰囲気を醸し出しているといってもいいのだが、それ以上に病院の中が外界と異なる雰囲気を醸し出しているのは「死」を身近に感じさせられることに起因しているのではないだろうか。

もちろん死がそこに現実にある訳ではない。しかしながら、健康体であった人が病気になることによりより死に近い位置に自分がいることを思わざるを得ないのではないだろうか。そして病院の主役が病気になった人々である以上、それらの人たちの思いが全体の雰囲気を支配するのではないか。メメント・モリ(死を想え)という言葉があるが、病院という場所は死が身近にあるだけにそれを強制的に私たちの感覚に刻み付けざるを得ない力を持っているのであろう。

それに対して外部つまりシャバでは、人々は日常で死を思うことはほとんどないであろう。テレビ・新聞で死亡事故や殺人事件のニュースを知っても、それは自分とは関係ない別世界の出来事であるとどうしても私たちは思ってしまう。

したがって、一般の外部の人々が病院に来るて、そのまま外界の雰囲気を持ち込むと何か浮いてしまう気持ちを持つのではないか。死が日常であるべき場所に死が非日常である雰囲気を持ち込むことにはいわばチャラチャラした感じを与えそれが違和感を感じさせるのだろう。

したがって、病院に入ると一般の人々も外界の雰囲気を脱ぎ捨てなにか厳粛な雰囲気というものをまとうことになる。お寺でお坊さんの説教を聞く時や葬儀場にいる時と同様の雰囲気とでもいったら良いであろうか。

ところが今回京大病院で感じたものはそれとは全く異なるものであった。入り口を入った内部はホテルのロビーのような雰囲気を醸し出している。しかもそこには先に述べたようなドトールやローソンがある。ドトール、ローソンと言えば外部の社会で最も通常見られる店である。それが病院の中にあることは、いわば外界が病院の内部に侵入して本来病院内部が持つべき雰囲気を外界の雰囲気に変えてしまっているのである。

もちろんそのことは、一般の人々からすると病院に診察してもらいに行ったり入院患者の見舞いに行くことに対する抵抗感を少なくするという利点を有していることは確かである。病院経営をビジネスとして考えた場合、正しい選択なのかもしれない。

しかしながら、病院という死を身近に感じるべき場所をシャバの延長にしてしまうことに私はある種の抵抗を感じる。日常生活を送るにあたっても、常に心の片隅にでもいいから死を常に刻み付けておくことは必要なのではあるまいか。


京大病院