シンガポール通信ーiPadは何ができるか2

前回は、iPadが情報閲覧専用のデバイスと見なされる事、そしてそのように割り切る限り、良くデザインされたデバイスである事を述べた。しかし、そのような割り切りのもとでiPadは評価されているのだろうか。

最近でこそ見かけなくなったが、iPadが出始めた当初はそれこそ手放しでiPadを賞賛する声が多かったのをおぼえている。しかもいわゆるIT通を任じている人たちほどiPadを賞賛していたのではないだろうか。いわく、「これ1台で何でも出来る」「もうパソコンはいらなくなった」などなど。

ところで一方でこれらの人たちは、時代はWeb 2.0へ向かっていると声高に主張していたのではなかろうか。Web2.0とは何か。それは、それまでのWeb(Web 1.0)においては人々が情報の受け手にとどまっていたのに対し、Web2.0では誰でもが情報の発信者になる事が出来るという事を意味している。

これまでのメディアの歴史の大きい部分は、マスメディアに代表されるように一部の送り手から大多数の受け手に対して情報が送り出されるというのが大きな流れであった。新聞、ラジオ、テレビ等のメディアはその代表例である。そしてさかのぼればそれは、グーテンベルグの印刷術の発明にまでさかのぼる事が出来るだろう。

少数の人が多数の人に情報を流して、世論を作りそしていわば世界を制御する。それがこれまでの人間の歴史であった。それに対してWeb2.0の意味するところは、大多数の一般人がこれまでの情報の受け手の立場から情報の送り手になる事が出来るということである。その意味では、Web2.0はメディアの歴史の中で大きな変換点になる可能性を持っている。

しかしこれまで述べて来たように、iPadは情報の閲覧には適しているが、現時点では情報の生成にはあまり適していない。ということはWeb2.0の流れに反するものなのではないだろうか。そのような声がなぜ起こらないのだろうかというのは、不思議と言えば不思議である。

それともこういうことなのだろうか。それは結局のところ、情報の送り手となりうるのは少数の人たちであり、大多数の人たちは大概の場合情報の受け手である事に満足しているのではないだろうかということである。

確かに私自身も、新聞記事をWebで閲覧したり、その他にも種々のWeb siteを見るだけに時間を費やしている場合は多い。何よりも情報を生成するということは、頭を能動的に働かす必要があり労多い事であるのに対し、情報の閲覧は受け身で居られる分だけ楽である。

その意味では、iPadWeb1.0からWeb2.0への流れに竿をさす事になっていると言ってもいいのではないか。iPadを諸手を挙げて賞賛している人たちは、その流れに乗っているといってもいいのではないか。

そして、アップルの時価総額マイクロソフトのそれを凌駕し、スティーブン・ジョブスが時の人となり、人々の賞賛の的となっている。しかし、そしてこのブログでも書いたが、かっては彼はアップルを追われ過去の人として忘れられかけていたのではないか。

世間とはそのようなものだと割り切るのは易しい。そして世の中の流れに乗って現在旬のものに飛びつくのは易しい。それに対して、その先にある新しいものを創りだそうとする試みは苦しいものであり、かつその大半は失敗に終わるものである。

しかし、スティーブン・ジョブスはその道を歩んで来たのではないだろうか。彼の失敗の歴史が現在のiPodiPhone、iPhadの成功につながっているのではないか。私には、スティーブン・ジョブスが陰でこういっているような気がする。

「君たち、Web2.0なんて言っているけれど、大半の人は情報を生成したり情報を送り出すなんて面倒な事には手を染めたくないんだよ。それよりも、webを見たり、ゲームをしたり、映画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだり、というのが大半の人が時間を過ごしたいと思っている生活スタイルなんじゃないか。君自身もそうだろう。さあそんな生活スタイルに適したデバイスを僕が創り出してあげたよ。それがiPadだ。これさえ持っていれば、ゲーム機もいらないし、パソコンもいらない。君もこれで遊んでみよう。」

そしてスティーブン・ジョブス自身は、人々がiPadに興じている間に(もっというと人々にiPadに興じさせておいてその間に)着々と次世代のメディアやデバイスに関する構想を練っているのではないだろうか。

ぜひとも情報関連の企業や大学などでは、iPadを踏み台にしながらその先にあるメディア・デバイスの研究に力を入れてもらいたいものである。しかしながら現状は、iPadと同様のデバイスを単に機能を少し追加したりサイズを変えて製品化する流れが主流のようで、残念である。