シンガポール通信ー鳥取県智頭での読書会1

少し旧聞に属するけれども、昨年12月25日、26日に鳥取県智頭で行われた耕読会と称する読書会のことを記しておこう。
この読書会はちょうど1年ほど前、京大防災研所長の岡田先生に誘われて参加するようになったものである。

岡田先生との出会いも少し変わっている。このブログでも書いたけれども一昨年秋にドバイで行われたWorld Economic Forum (WEF)の会合に招待されて参加した際に同じく招待されて参加されている岡田先生に出会った。

WEFは、世界の種々の問題を広く政治・経済・学術などの分野の指導的立場にある人たちが集まって議論する場として有名で、いくつかの会議を開催しているが、その1つが毎年冬にダボスで行われるダボス会議である。

その夏の会議に相当する会議(サマーダボス)は昨年秋に中国天津で行われ、その参加記録もこのブログで書いた。ドバイでも毎年WEFの会議が行われており、そこで岡田先生と出会った訳である。

WEFの会議には毎年多くの日本人が参加しているが、やはり東京圏からの参加者が多く、関西圏からの参加者は数えるほどである。このドバイでの会議でも関西からの参加者は多分岡田先生だけだったのではないだろうか。

このあたりに東京と大阪に代表される関西の経済力を始めとする力の差を感じるのであるが、同時にやはり東京人と関西人の性格の差も出ているようである。東京人はある意味で洗練されており、国際的な場での対応も慣れている.これに対し、関西人は京都・大阪というかっての日本文化の中心を担っていた場所に住んでいるというせいもあるのだろうが、自分中心の考え方・態度になってしまう。

いわゆる地が出てしまうのである。日本の経済力が絶頂にあった時代はそれでも良いだろうが、既にバブルが崩壊した今となっては、自分中心の考え方や態度というのは国際的な場では受け入れられにくいと思われる。

実は今の中国がかっての日本のような経済の絶頂期にあると(まだまだこれからものびるというのが大半の人の意見かもしれないが)考えられる。現在、中国人が自らの考え方・態度そのままで堂々と米国・欧州の人たちと対応しているのを見ると,かっての日本を見るようで、ある種の危うさを感じるのは私だけだろうか。

一方で東京人は、国際的な場で如才なく振る舞うある種の洗練されたものを持っている人が多い。しかしながらこれは別の見方をすれば、独自性を持たないという事である。独自の自分の考え方を持っているというよりは、いかに他人とうまく接するかといういわば社交術を身につけただけの人が多い。

「だけの」という言い方は少し失礼かもしれないが、全体としてすべてが東京化しつつある日本にいま欠落しているのは、この独自の考え方、もっというと哲学・生き方ではないだろうか。そしてそれが国際社会で日本が現在認められていない事の原因ではないだろうか。

ちょっと脱線してしまったけれども、このような国際的な場において関西からの参加者が少ないのは、やはり関西中心とした考え方から脱しきれず、国際的な場での洗練された態度を身につけきれない関西人の限界を感じてしまう。

もちろん自分独自の考え方、他人への接し方を持つ事は、上に述べたように本来は極めて重要な事である。そしてそれがあるレベルを越えると、国際的にも評価される事になる。かっての京大は、ノーベル賞湯川博士を始め人文研にその種のそうそうたる人たちを有していた。

ところが、その独自性が中途半端なものになると、それはローカルなもの、もっというと野暮ったいものと国際的な場では評価される可能性がある。とするならば、関西人には国際的な場で活躍するには何か突き抜ける強さのようなものが必要なのではあるまいか。そしてそれは今後日本が国際的な場で認知されるために必要なものであり、日本人全般にいえる事なのかもしれない。

岡田先生は、この突き抜ける強さを持った独自性が感じられる。ダボスで出会ったその他多くの洗練された東京人に比較して明らかに見た目は野暮ったいのであるが(本人には大変失礼な言い方であるが)、東京人にはない独自性が感じられる。

耕読会の事を書くつもりが、脱線して岡田先生論、日本人論になってしまったようである。耕読会の件は次回に書く事にしたい。