シンガポール通信ー西洋哲学と東洋哲学

前回書いたように、欧米人と東洋人の考え方・行動パターンが本質的に違うのかどうかを調べてみるために、西洋哲学と東洋哲学をざっと勉強してみようと思い立った訳である。

西洋哲学と東洋哲学の比較という難しい問題をそう簡単に考えてもらっては困ると、専門の人たちからは非難されるかもしれない。しかも解説書などはいっさい読まずに、原典(もちろん翻訳であるが)に直接あたってみようと言う訳である。

それは無謀だよと言われそうである。もちろんそれは承知している。大学時代哲学の講義に少し顔を出して、全く何の事かわからず早々に退散した経験もある。

もっとも、プラトンが人間の考え方を説明するのに使った、実際のものを見ずに洞窟の壁に映った影絵を実物だと思っているという洞窟の比喩の話はなぜか記憶に残っていたので、プラトンを読んでいてその記述にであった時にはなんだか古い友人に出会ったような気がしたものである。

というわけで、西洋哲学については、プラトンから始めて、アリストテレスデカルト、カント、ヘーゲルと読んで来て最近はベルグソンハイデッガーを読んでいる。(もちろん哲学素人なのでわからないところはとばしながらの流し読みという無謀な事をしている訳であるが。)

一方東洋哲学については、まずは中国哲学だろうという事で、孔子孫子老子荘子などにあたってみて、現在は韓非子を読んでいるところである。

何度も言うようであるが、哲学に関しては全くの素人のしかも流し読みに近い読み方なので、的を外れた意見になっている恐れも大である。それを承知の上であるが、西洋哲学と東洋哲学(もっと具体的に言うと中国哲学)を比較しながら読んでいると、両者の類似点と相違点がある程度見えてきたような気がしている。

まず類似点から見てみよう。ギリシャ哲学の代表とも言えるプラトンと、中国哲学の代表とも言える孔子を取り上げてみると、意外に共通点があるのに気付く。

まず生きていた時代が似通っている。孔子の生涯はBC551 - BC479、これに対してプラトンはBC427 – BC347。100年の違いがあるとは言いながら、ほぼ同じ時代に生きている。

しかも孔子の時代は、中国ではいわゆる春秋時代と言われる、多くの小国が覇権を争っていた時代である。またプラトンの時代は、アテネとスパルタがギリシャの覇権を巡って争っていたいわゆるペロポネソス戦争の時代である。

つまり、両者とも時代としては戦争に明け暮れ安定した社会が実現されていなかった時代である。そのような時代に哲学に求められるものは「人間とは何か」「自分とは何か」といった形而上学な哲学ではなく、国とは何か、個人と国の関係、そして国を治めるにはどうすれば良いかといった、まあ言ってしまえばより実際的な方向を目指した哲学となりやすい。

孔子は、国家が安定になるためには、人々が礼といった家長や君主といったいわば目上のものに対する尊敬と服従を守ったり、仁といった他の人々に対する思いやりなどが重要であり、これらを基本として社会や国家が形成され維持されるという道徳を説いた。

一方プラトンにおいても国家という存在は極めて重要なものであり、国家が個々の人々をどのような形で集める事により成り立つのか、人々は国家の形成と維持にどのようにして貢献できるのかといった議論が彼の対話を中心とした著書で行われている。特に彼の主著である「国家」はまさに国家とはどうあるべきかが論じられているわけである。

そしてそこでは「徳」という概念が人間に求められるものとして説かれている。これは孔子の言う礼や仁と似た概念であるといっていいだろう。

そしてこのような考え方は当然、現実の国・国家のあり方に対して理想の国・国家のあり方を提案するという方向に向きやすい。言いかえると、自分が国家の成立と維持に具体的に貢献する事をめざそうという姿勢である。

孔子春秋時代の種々の国の国政に携わりたいと考え、仕官の道を求めたというのはよく知られているところである。しかし残念ながらその理想主義の故にか、なかなか彼を雇おうとする国はなく、結局最後には仕官をあきらめざるを得なかったというのもよく知られたところである。

一方プラトンもよく似た境遇におかれていたと言っていいであろう。彼の生きていた時代は、ペロポネソス戦争アテネが敗北しアテネの人心が乱れていた時代である。そのような時代であるからこそ,彼は若者を中心として人々が国家への忠誠を持ち、それが国家が維持される原動力となると考えた。

また同時に施政者に対しても国家への忠誠を要求し、そして政治の理想的なあり方として徳とは何かを知っている哲学者が国を治めるべきであるという有名な「哲人政治」を提唱した。しかしながら、孔子同様プラトンの場合も、彼の考え方が取り入れられるには至らなかった。