シンガポール通信ー中国哲学を読みながら日本を考える2

前回欧米人の最近の行動が、日本人を含め東洋人に似てきた事を指摘した。そしてその具体例として、時と場合に関わらずメールをする行為が西洋人の間に見かけられるようになった事をあげた。会議やディナーの場でも多くの欧米人がメールを読んだり送ったりしているのを見かけるのは、皆さんも経験すみではないだろうか。

友人や家族にメールを送るという行為は、私的な行為である。かたや会議やディナーの場は公的な場である。公的な場と私的な場の混在が生じている訳である。もともと公的な場と私的な場を混同するのは日本人に代表される東洋人の専売特許だったはずである。そしてそのことは東洋人の欠点として欧米人から非難されて来たのではないだろうか。

ところが、そのような行為を欧米人も行うようになっているのである。これは第一義的に言うと欧米人の行為が東洋人の行為に似て来た事を示しているといって良いのではないか。

しかし事はどうもそれだけでは収まらないようである。最近であるが、米国の大学の先生と話していて、私と1対1で話している時に相手が時々携帯に目をやってメールをチェックしたり、なおかつ話しながら同時にメールを送信しているという場面に出くわした。

1対1で話をしている時に同時に携帯でメールを送受するという行為は、さすがに日本人でもよほど親しい間柄でない限りしないのではないか。親しい間柄の話し合いであればそれは私的な行為である。そのような場では、メールの送受という私的な行為を同時に行っても許されるだろう。

一方大学の先生同士の話し合いは、まあ公的な行為であろう。公的な行為においてしかも1対1の対話という本来他の行為を交えてはいけない場面で、メールの送受という極めて私的な行為を相手が行っているのに、私は少なからずショックを受けた。

しかし、その後気をつけていると、結構多くの人が似たような行為を行っているのに気がついた。つまり、公的な行為と私的な行為の混同という意味では、欧米人が東洋人の行為をすでに通り越した先を行っているというわけである。

これはどういう事だろう。欧米では公的な場と私的な場を峻別する事がマナーであったのではないだろうか。

この事に気がついてから国際会議などの場で講演する際、時々この話をする事にしている。そうすると面白い事に欧米人の反応は大きく2つにわかれる。

1つは、そういえばそうだと賛成してくれ、それはどうしてだろうと考えるタイプ。それに対してもう1つは、そんな事はない、もしあるとしても一部の人間に過ぎないと頑固に否定するタイプ。後者では時には怒りだす人もいる。

しかし、かたくなに否定するという事自身、それを実は深層心理では認めている事を意味しているのではないだろうか。自分が深層心理では認めている事を公に認めたくないために、頑固に否定するのではないかと言って良いのではないか。

日本を語ると言いながら、欧米人の行為の変化の説明になってしまっているようであるが、本番はここからである。

つまり私が言いたいのは、これまで日本人は特殊であり特殊な行動パターンを取ると言われて来たのであるが、一方で欧米人の最近の行為特にメールの送受に典型的に見られる行為は日本人のそれに似て来た、さらには日本人の行為を通り越している部分もあるのではないかということである。

ということは、西洋と東洋の違いというのは一体何なのだろう。実際に違いがあるのだろうか。あるとすればそれはどこにあるのか、そしてそれは何に起因しているのか。といった事が最近私が興味を持っている事である。

さらにそれに輪をかけて最近面白い本に出会った。これもこのブログで一度紹介したが、「5万年前」と「人類の足跡10万年全史」の二冊である。いずれも京大防災研所長の岡田先生に紹介してもらったものであるが、ともかくも面白かった。

この本が述べているのは、現在地球上に存在している人類のほぼすべては、5万年前〜10万年前にアフリカを出た100人ほどのグループの子孫であるという事である。ということは、現在の人類のすべては、言ってしまえば親戚関係にあるという事である。

とするならば、本来は世界中の人々の行為や考え方などは似ていて当然なのではないか。ところが西洋と東洋の比較などにおいて良く主張されるように、欧米人と東洋人は本質的に異なっているかのような指摘がなされてきた。一体何が正しいのだろう、これはどうも自分で考えてみるしかないのではないだろうか。

というわけで長々と脱線してしまったが、西洋と東洋の考え方の違いを両者を比較しながら考えてみようと思い立ったわけである。考え方となるとその根源に帰ると哲学という事になる。というわけで、西洋哲学と東洋哲学を比較しながら勉強してみようという気になったわけである。