シンガポール通信ー中国哲学を読みながら現代を考える

このところ週末には中国の哲学の古典を読んでいる。孔子老子荘子ときて現在は韓非子を読んでいるところである。

この間まで西洋哲学を読んでいるといっていたではないか、いつの間に心変わりをしたのだとおしかりを受けそうである。

しかしそもそもの発端は、私たちの毎日のコミュニケーションの仕方、そしてその西洋・東洋の差に注目し始めたところにある。よく言われるように、西洋のコミュニケーションが論理に基づくものが中心であるのに対し、私たち東洋人はどうしても感情・感性にかたよったコミュニケーションになりがちである。

日本にいると、日本人の特徴に焦点を当てた日本人性格論などを書いた本によく出会う。これらの本はいずれも、どうも日本人が特殊であるという出発点を基にして議論を展開しているようである。これが嵩じると、最近よく言われる日本ガラパゴス論に発展していくのだろう。しかし日本はそして日本人は特殊なのだろうか。

さらに日本特殊論を論じている人たちは、日本は特殊であるからグローバリゼーションが必要であるという開国派と、日本の特殊性こそ大切でそれをあくまで守るべきだという鎖国論にわかれているようである。

両者はいずれも一長一短であると思われるが、それぞれの派の人たちは自説をあくまで主張して時には感情的になっている事もあるように見受けられる。しかし見方を変えると、日本人同士で開国論・鎖国論を論じているところに日本の問題点があるのかもしれない。

日本人同士で開国論・鎖国論を論じても、それはあくまで内向けの論理であり議論である。もう1つ高いところから見ると、このような議論の進め方こそが鎖国的なのであろう。

最近の政府や国会の場での動きを見ていても、全く同じことがいえる。尖閣諸島問題にからんで、韓国漁船が衝突して来たビデオが流出した問題に関し、誰が流出させたのかという議論が延々と行われていた。

確かに国家機密が個人レベルで簡単に流出するようでは、国としての情報管理に問題があるだろう。機密情報の管理が甘いと言われればその通りであろう。しかしあれはそもそも国家機密に属する情報なのか。国民の中にはよく流してくれたという意見も多いようである。

第一あのビデオが流出したからといって、中国からの反応は驚くほど少ないではないか。あの映像は明らかに中国に取って不利な映像であろう。このことが、中国側がこのビデオ映像に関して沈黙を守っている理由であろう。

国家機密というのは、それが流れると自国に取って不利になり、他国に取って有利になる情報をいうのではないだろうか。とするとこのビデオは国家機密には属さないということになる。

もちろん、このビデオが中国に不利である事をわかっていながらわざと流させておき、国内で大騒ぎしているようにみせかけているという可能性もある。つまりすべてが演出だというわけである。そうだとすると管政権もなかなかやるなというわけであるが、まあそれ以外の案件でのつまずき振りを見ていると、どうもそうとも思えない。

さて少し脱線したが、言いたかったのは日本は特殊であるかという問題である。シンガポールに来て強く感じるのは、やはりここはアジアだという事である。前のメールにも書いたが、学生を見ていても、個人レベルではかなり本音を話すのに、会議などの公の場になると様子見に徹して自分の意見を出さないという場面が多い。これなどは日本人の行為によく似ている。

西洋人だと,他人の意見とは違う自分自身の意見を表明することによって自分を主張するという行為をする事が多いが、どうも日本も含めてアジア文化は総じて他人と異なる事を嫌うようである。

しかし、このような考え方は、いわば日本をアジアに広げただけであり、日本人特殊論をアジア人特殊論に拡張したものだという事も出来る。最近私が西洋とアジアの比較に興味を持つのは、西洋と東洋は本当に違うのか、違うとしたら何が本質的に異なりまたそれはなぜそうなのかという事に興味を持つようになったからである。

さらに、これも別の機会にも論じたが、最近西洋人と東洋人の行為が似て来たという場面に遭遇する事が多くなった。もっと正確に言うと、西洋人の行動原理が東洋人のそれに似て来ているのである。

具体的に言うと、場所と時間をかまわず常にメールをチェックしメールを送るという行動パターンは日本人がさらには東洋人が得意とする行動パターンだったはずである。

(続く)