シンガポール通信ーシンガポールの天候

今日も朝から曇りである。時々断続的に雨がぱらつく。前にも書いたが今年のシンガポールの天候は異常である。

昨年までであれば、ほぼ毎日が快晴で抜けるような青空であった。定例行事であるかの様に毎日一度はシャワーが降るが、それも30分もすれば上がってしまうので、人々は傘をさして歩くというよりは、シャワーになるとビルの入り口などでおしゃべりしながら雨が上がるのを待っているのが通常であった。

ところが今年は、その抜けるような青空というのになかなかお目にかかれない。統計を取った訳ではないが、多分日数全体の半分かそれ以下だと思われる。

もっとも曇り空とはいえ、日本的などんよりした曇り空というのではなくて、空全体が明るい白色で、そこに時々強い雨が降るという天候なので、日本の天候に比較すると男性的ではある。

しかしながら、ともかくも昨年までに比較すると異常である事は確かである。シンガポールに限らず今年は世界的に気象異常が伝えられているので、シンガポールの天候異常もそのような世界的な傾向の1つなのかもしれない。

しかしそれよりも私が驚かされたのは、人々の天候に対する感覚である。ともかくも私としては昨年までのシンガポールのほぼ毎日が快晴という天候に慣れているせいもあって、今年の天候異常は気になって仕方がない。天候は私たちの感情にも深く関わっているから、毎日の気分も変わってくる。

当然、シンガポールの人たちもこの天候異常を大変深刻に受け止めているのであろうと考えていた。ところがである。私の周囲の人たちに今年の天候異状をどう思うと聞いても、「そういわれればそうだな」という返事が大半である。中には「シンガポールには雨期がありますから」というとんちんかんな返答をする人もいる。

天候の話をシンガポールの人たちとしていて気がついたのであるが、どうも彼等はあまり気にしていないようなのである。もちろん気がついてはいるのだろう。しかしながら気にしていない。このような態度は私たち日本人からするとどうにも理解しがたいところがある。

この事を考えているとどうもこうなのではないかと思えて来た。結論から言うと、シンガポール人は天候に関する感受性がないかもしくは退化しているのではないかという事である。

これまで毎日の天候は快晴が通常であったため、天候というものに対して注意を払い、それがどのように毎日変化しているかを観察するという基本的な行動原理を持っていないのではないだろうか。

これは日本人の持つ天候に関する鋭い感覚と比較すると驚くべき事である。日本は、四季の気候の変化が明確であると同時に毎日の天候が微妙に変化する。さらには本来は農業国であり、天候の変化は米や野菜などの作物の収穫に大きく影響する。

そのために日本人は、四季の気候や毎日の天気の移り変わりに対する微妙な感受性を育てあげて来た。日常の挨拶も天気の話をするのが通常であるという文化を作り上げてきた。私たちは日本人が持つ天候に対する鋭い感受性が独特なものであるとは理解しているが、当然他の国の人々もその国の天候に対して彼等独自の感受性を持っているものと想像していた。

しかしこういう言い方をすると失礼かもしれないが、シンガポールの人たちはそのような感受性を持っていないようなのである。それは一つには毎日が同じように快晴という天候の中で生きてきたため、天候の変化というものを気にする必要がなかったからだろう。そしてもう一つはシンガポールが貿易立国であり、天候が人々の生活に本質的に影響する事が少ないという面を持っているからであろう。

そういえば前から不思議に思っていた事であるが、シンガポールのテレビ番組には天気予報というものがないのである。毎日が快晴だから必要ないと言ってしまえばそれまでであるが、それにしても天気予報がないというのは日本人からすると信じがたい事である。

日本のテレビ番組であれば、いずれの番組もほぼ1時間ごとに、各地の天候や1日のさらには1週間の天気予報を流している。チャンネルを変えてみるとどこかのチャンネルで天気予報をやっているのに出くわすという言い方も出来るかもしれない。

ただ私はシンガポールのテレビ番組に天気予報がないことを、「毎日が快晴だから天気予報は必要ない」のではとないかという論理的な立場からの理解をしていた。しかしながら、これまで述べて来た事から考えると、もしかしたらシンガポール人には天候の変化というものに対する感受性がなく、そのため「天気予報という概念そのものがない」のかもしれない。

もちろんもう少し調べてみる必要があると思うが、もし本当なら私がシンガポールに来て以来出会った日本との最大の文化差ということになる。