シンガポール通信ーゼノンのパラドックスとベルグソン

現在、西洋哲学の流れの概略をつかむため、プラトンから始まって代表的な西洋哲学者の著作のこれも代表的なものを読んでおり、ベルグソンまできた。現在ベルグソンの「思想と動くもの」(岩波文庫)を読んでいる。

代表的な著書のしかも流し読みに近いので、哲学を専門にしておられる方々からは、「それで哲学をわかったつもりになってもらっては困る」とおしかりを受けそうである。しかし結局のところ哲学というのは、他の哲学者の影響を受けるにせよ、最後は自分で考え自分の哲学を確立すべきものであろう。

その意味では、現時点での自分の考えに基づき哲学者の著作を自分の考えの観点から解釈するというのは、間違っている訳ではないと思っている。

ベルグソンは変化・運動、時間などについて論じた哲学者である。また、哲学における直感の重要性を論じた哲学者としても有名である。「思想と動くもの」を読んでいるとゼノンのパラドックスの事が論じてあるのに出会った。

何かの本で読んだ事があり、昔から哲学の重要な問題としてとらえられて来たという事も知っていた。しかし、学生時代の事でもありすっかり記憶の彼方になってしまっていたが、ベルグソンの著作を読んでその当時考えた事を思い出した。

ゼノンのパラドックスというのは次のようなものである。

ゼノンのパラドックスアキレスと亀が競争をする。アキレスはA1地点から走り始める。亀はその前方のA2地点から走り始める。アキレスがA2地点に到達すると、亀はその先のA3地点に到達している。アキレスがA3地点に到達すると、亀はその先のA4地点に到達している。このプロセスは無限に続くので、結局アキレスは亀を追い越せない。」

これを何かで知ったのは学生時代であるが、そのとき既に私は無限級数を習っていたので、このパラドックスは数学的にとけることはすぐに理解できた。数学的に解を考えると以下のようになる。

解答1「アキレスがA1からA2に到達するのに必要な時間をB1とする。同様にA2からA3に到達するのに必要な時間をB2とする。同様にB3, B4, B5,....と無限に続く。B1, B2, B3を無限に足して行くと、アキレスが亀に追いつくのに必要な時間になる。B1+B2+B3+…の結果は特定の有限の値Cに収束する。つまり時間Cが経つとアキレスは亀に追いつく。」

もしくは次のように別の形でいいかえる事も出来る。

解答2「A1, A2, A3, …という点の系列は無限に続くと特定の点Dに収束する。点Dがアキレスが亀に追いついた地点である。」

このように数学的に考えると、アキレスがある時間後にある時点で亀に追いつく事は証明できるので、当時の私に取ってはこれがなぜ昔から哲学者達を悩ませて来た難題なのかがあまりよくわからなかった。

今思い返してみるとこれは次のような事なのだろう。ゼノンのパラドックスが述べている論理は、私たちの理性や常識にとって受け入れやすいもしくは理解しやすいものである。したがってその結論を受け入れそうになる。もちろん、アキレスが遅い亀に追いつけないというのは不合理であることは直感的にわかるのだが、同時にこのパラドックスに反論しようとするのが困難であることも感じる。

それに対し、解答1、解答2は数学的には明白な事なのであるが、常識からすると理解するのに少し骨が折れるのではないだろうか。

どうも人間の常識・理性(哲学的にはこのような場合「悟性」という言葉が使われるようである)にとっては、受け入れやすい論理展開と受け入れにくい論理展開があるようなのである。

とすると昔から哲学者達が論じて来たのは、このパラドックスが間違っている事を証明する事というよりは、このパラドックスをベースとして人間の理性の働きの特徴というものを考える事なのではあるまいか。

これに対するベルグソンの考え方は、「運動という連続した1つのつながりを部分的な運動に分解しようとする考え方そのものが正しくない」もしくは「連続した時間の流れを部分的な時間の流れに分解して考えようとする事が正しくない」というものである。いいかえると、部分的な運動・時間という考え方がこのパラドックスを生み出す元になっているということになる。

さてこのような考え方は現代の私たちに取って受け入れられるであろうか。数学的考え方、科学的考え方に慣れている現代の私たちに取っては、このベルグソンの考え方のほうにある種の抵抗を感じるのではないだろうか。どうもこのあたりに科学と哲学の考え方の違いが出ているようである。

(続く)