シンガポール通信ーゼノンのパラドックスとベルグソン2

またベルグソンは、このゼノンのパラドックスに対する批判として次のような事も述べている。

「ゼノンのパラドックスは、アキレスと亀の競争という時間に関する問題を、アキレスと亀の位置という空間に対する問題に置き換えているが、このことがパラドックスを引き起こしている。時間は本来分割不可能なのに、それを空間に置き換え空間の分割問題にしたところに問題がある。」

つまりベルグソンは、時間は分割不可能であるが空間は分割可能であると論じているのである。これは正しいのだろうか。

実は、ゼノンのパラドックスとよく似た空間に関するパラドックスを考える事が出来る。それは次のようなものである。

「コップを水で満たそうとする。そのためにはその半分をまず満たす必要がある。半分を満たすためには半分の半分を満たす必要がある。半分の半分を満たすには半分の半分の半分を満たす必要がある。このプロセスは無限に続く。したがってコップを満たす事は不可能である。」(このパラドックスは、ゼノンの矢の運動のパラドックスを空間に置き換えただけのものであり、誰かが既に提示していると思うのだが、現時点では見つけていない。どなたか見つけて指摘して頂けるとありがたい。)

このパラドックスはどう反論すべきだろうか。「このプロセスは無限に続く」という前提から「コップを満たす事は不可能である」という結論を導いているが、ここには論理の飛躍があり、それがこのパラドックスを引き起こしている事は直感的に分かる。しかし論理的にこのパラドックスが間違っている事を証明せよと言われると、結構難しいのではないだろうか。

ところが、別の考え方をするとこのパラドックスを論破する事が比較的容易にできる。このパラドックスの論理の基本は、空間が無限に分割できる事を仮定していることにある。

ところが、現代の私たちは空間を無限に分割することができない事を知っている。空間を分割していくと量子論の世界に入って行く。そして分割不可能な単位である素粒子に行き着く。つまり空間は無限に分割可能なのではなくて、それ以上は分割できない最小の単位があるのである。

そうすると上のパラドックスに対する反論は以下のようになる。

「このプロセスは無限に続くというパラドックスの前提は、空間が無限に分割する事を仮定しており正しくない。このコップの空間の分割のプロセスを続けて行くと、分割できない最小単位に到達する。それを水で満たしてやれば、このプロセスを逆にたどって行く事により、コップを水で満たす事は可能になる。」

ベルグソンの晩年には量子論は確立されていたので、彼が自分の哲学に量子論を取り入れようとしたのかどうか、取り入れたとしたらどう取り入れたのかは興味のあるところである。