シンガポール通信ー下条信輔「意識とは何だろうか」3

さて、最後に意識と自由意志の問題に関して、著者がどのように考えているかについて見てみよう。前回も書いたが、人間の脳の中では膨大な情報処理がなされている。その大半は無意識下で行われているものであり、そのごく一部が意識に上ってくるとこの本では述べられている。

無意識が意識に上る条件を著者は3つあげている。前回と重複するが再度あげておこう。

1.自分の行動になにか邪魔が入ったとき。例えば車やオフィスのドアを開けようとしてキーがないことに気付いた場合など。普段は無意識にポケットなどから取り出して開けるのだが、いつも入っているポケットに鍵がない場合などはハッと意識させられる。

2.自分の行動を見直したり評価したしたりする場合。昨日の発表の内容を反省したり、またこれからの行動計画を考える場合などがそれにあたるだろう。いわゆる「自省」という行為がそれにあたるだろう。

3.他者から自分を客観的に見る事を強制された時。たとえば面接試験の場や、通りを歩いていて何かに妻づいて転び、皆が自分の方を振り向いた時などがそれにあたる。

前回も書いたが、これらはいずれも通常はスムースに進んでいる脳の情報処理にある種の外乱もしくは特殊な状況が生じた場合といいかえる事が出来るだろう。いいかえると例外処理が生じている訳である。

問題はその先、自由意志の事を論じている箇所である。著者は自由意志とは何にも妨げられない状況でこそ働くものであり、これらの3つの状況はいずれも意志が自由ではない状況であると論じている。

そして自由な行為とは自由が妨げられない状況,いいかえると意識にのぼらず無意識で処理が進んでいる状況であると述べている。そしてその代表的な例として没頭し我を忘れている時にこそ自由意志が働いていると結論付けている。

つまり意識が働いている場合こそ自由意志が働いていない状況であり、自由意志は意識が働いていないつまり無意識の状態でこそ働くものだというのが著者の結論である。そして著者は、「意識について説明しようとしながら、その最後の自由意志の箇所で再び問題が無意識へと戻ってしまう」と指摘している。

この箇所については異論がある。

ここまでの論旨展開は、極めて論理的であり私も著者の論旨展開、いいかえるとストーリーテリングの巧みさに感心しながら読んでいたのであるが、残念ながらこの箇所では異論を唱えざるを得ない。そしてこの箇所こそがこの本のキーとなる箇所なのである。

何が間違っているのか。私は著者が「自由」や「自由意志」の意味を取り違えていると思う。著者による自由とは、何かに妨げられない状態、自由に振る舞える状況と解釈している。たしかに自由という単語単体ではそのように解釈してもいいだろう。

しかし、自由が意志と結びついた自由意志になると状況が異なってくる。自由意志とは周囲に自分の行為を妨害する状況があったとしても、それを乗り越えて自分の意志で選択した行為を実行しようとする事である。これこそが自由意志の意味するところである。

これは著者自身も認めている事であるが、現在の脳科学の知識に基づくと、人間の行動は脳という情報処理機構が身体という周囲の状況とのインタフェースを介して取り込んだ情報をブログラムと記憶を用いて処理した結果という説明になる。

これではどうしても人間の受動的な行動の説明にしかならない。人間の行動の大半は確かにその通りだろう。しかしその能動的な部分、自らの意志によって自分の行動を選択しそれを実行しようとする部分は、残念ながら著者のここまでの記述によっては説明できない。

そしてもう少し言わせてもらえるなら、意識が無意識の処理に何かしら妨害や外乱があった場合にのみ生じるという捉え方にも異論がある。

これだと意識はあくまで無意識の付随的なものであり、人は通常はほとんど意識なしに生活できるかのように理解されてしまう。意識とはそのような受動的なものではない。人は常に意識を保っている事が可能であり、さらには強い意識をもって無意識をコントロールする事も可能だと私は思っている。

この最後の箇所は強調しすぎると唯心論的な考え方になってしまうので、注意しながら考えて行く必要があるが、今後もこのブログを通して考えて行きたいと思っている。