シンガポール通信ー下条信輔「意識とは何だろうか」2

さて前回述べたように、下条信輔著「意識とは何だろうか」の前半では、人が周囲環境にいかに適合するかという処理を脳が行っている事が述べられている。ここでの記述は、大変やさしくかつ説得力がある。

しかし、まだここまででは意識の問題は何も論じられていない。むしろここまでの記述では、脳の処理とは、脳が外部入力に基づきプログラムおよび過去の記憶を用いて行う処理であると理解できる。それは言い方を変えると、あくまでも受動的な処理であって、脳が単なる情報処理機械、もしく身体という多くの入出力チャンネルを持っているロボットに過ぎないという言い方も出来る。

さてそのような記述の後で、第4章「意識と無意識のありか」で著者は意識の問題を論じている。もちろんここまで述べて来た内容をベースとしても、意識の問題は困難な問題である事を著者はわかっており、第4章の冒頭でもその事に触れている。

しかしそのような著者の努力にも関わらず、第4章「意識と無意識のありか」は残念ながら意識の問題に少しでも近づいたようには私には感じられない。これは下条さんが私の好きなタイプの科学者で、文科省の委員会などでもご一緒した事があるだけに残念なのであるが、指摘をせざるを得ない点である。いいかえると、それだけ意識の問題は大きな問題なのである。

まず、著者は意識と無意識がわけられるものではなくて、緩やかにつながっているものである事を示している。また、意識と無意識の中間領域にあるものとして「前意識」をあげてある。

前意識とは自分の注意からは外れているが、努力やきっかけによって意識化されるものである。例えば車の運転を考えてみると良い。慣れ親しんだ道で車を運転している場合、車の操作を意識する事は少ない。考え事をしているうちに無事に自分の家に着いたなどというのは誰もが経験する事であろう。

この場合、車の運転は意識にはのぼらず前意識で行われている訳である。しかし何かがあると、例えば急に自転車が飛び出したとかの事態が生じると意識に上り、意識が介入して急ブレーキを踏むなどの操作を行う訳である。

著者はまず人間の脳の働きのうち大半は無意識下でもしくは前意識下で行われている事を説明している。それは当然であろう。階段の上り下りの際の足の動かし方などをいちいち意識的に行っていたら、歩きながら考え事をする事などができなくなる。

そして無意識と意識が緩く連続している事を指摘した後、意識(といっても無意識のうち意識に近い前意識)が意識化される場合として次のような例をあげている。

1.自分の行動になにか邪魔が入ったとき。例えば車やオフィスのドアを開けようとしてキーがないことに気付いた場合など。普段は無意識にポケットなどから取り出して開けるのだが、いつも入っているポケットに鍵がない場合などはハッと意識させられる。

2.自分の行動を見直したり評価したしたりする場合。昨日の発表の内容を反省したり、またこれからの行動計画を考える場合などがそれにあたるだろう。いわゆる「自省」という行為がそれにあたるだろう。

3.他者から自分を客観的に見る事を強制された時。たとえば面接試験の場や、通りを歩いていて何かにつまづいて転び、皆が自分の方を振り向いた時などがそれにあたる。

ここに書いてある事自体は、確かにその通りである。しかし、これは意識を無意識からわけている性質を述べているだけであって、意識とは何かを直接的に論じている訳ではない。ましてや、意識がどのように生じどのように働いているかを述べている訳ではない。この説明では、何かに注意を向けるという意味での「注意」と意識とが同じものであるように見える。
意識とは人間の脳が行う膨大な情報処理のかなり上位の上澄みのような情報であるという言い方をよくされる。筆者の上記の説明も結局その説明と同じレベルなのではないだろうか。

つまりそれはコンピュータに例えると、脳という情報処理コンピュータが通常の処理を行っている時は特に問題がないが(すべては無意識で行われている)、何か外乱が入ったり特別な状況が生じた場合にはアラームを発して例外処理を行うという説明の仕方になる。

つまり、意識とは脳が例外処理を行う場合の処理やアラームに相当するものであるということになる。これは一見うまい説明に見えるが、本当にそうだろうか。

確かにコンピュータの情報処理と脳の情報処理の間には多くの類似点があり、意識・無意識の問題をコンピュータの例外処理に例える事は出来るだろう。しかしそれはあくまでたとえであって、意識とは何かを説明している事にはらないだろう。

第一、例外処理といえどもあらかじめプログラミングされている訳であるから、意識を例外処理と言ってしまうと、脳をコンピュータと同じとする人間機械論の立場に組する事になってしまう。

意識単体だとそれはアラームや例外処理と言っても良いかもしれないが、人間の場合は意識の先に、「意志」さらには「自由意志」という厄介な問題がある。意識の問題は結局この自由意志の問題にたどりつく。つまり、自由意志を持っており自分の行動を自発的に選択できるということこそが、脳をコンピュータと差別化しているものであるからである。

それでは自由意志の問題を著者はどのように論じているだろうか。

(続く)