シンガポール通信ー下条信輔「意識とは何だろうか」

最近、意識とか意志・自由意志などの問題を考えているので、昔読んだこの本の事を思い出して久しぶりに読んでみた。出版は1999年だからもう10年以上前の本である。下条さんは認知心理学者で、現在米国カリフォルニア工科大学の教授である。

研究者の多くが自分の研究領域のテーマ、研究の進展などにのみ関心を持ち、他の領域との関連を考える事が少ないのに対し、下条さんは常に自分の研究を通して、人間の知能とは何か、さらには人間とは何かを問い続けているようであり、私の好きな研究者の一人である。

下条さんの本は何よりも文章がうまい。どううまいのかと問われても困るのであるが、ともかくわかりやすいのである。一般の人たちの目線から書いた文章であるとでもいえばいいのだろうか。

さらに論理展開が易しくかつ明快なのである。読者が読みながら浮かんだ疑問などが次の節で答えが書いてあるというように、読者の思考の展開にあわせて文章がつづられている。というよりはもちろん読者の興味をそのような方向にうまく引っ張って行っている訳である。

いわゆる上手なストーリーテラーなのである。この本は科学解説本に分類されるのであろうが、このような本を書く場合も小説家・映画監督などと同じようなストーリーテリングの能力が要求されるのだなということを実感させてくれる。

さて本の内容であるが、いきなり意識の問題を扱うのではなくて、人間の脳の働きを最近の脳科学研究の成果に対する豊富な知識をベースとして一般読者にもわかりやすいようにやさしく説いているという内容である。

筆者はまず錯視(錯覚を起こさせる絵)の解説から入って行く。そして、 錯視にとどまらず錯覚・錯誤が、実は脳の判断の誤りなのではなくて、人を周囲の環境に最適に適合して生きていけるように行っている脳の適合処理である事を示している。

たとえば、赤いゴーグルをかけると周りの世界が白い雪も含めてすべて赤く見える。しかししばらく経つと以前と同様に雪は白く見え始める。そのような状態でゴーグルを外すと今度は雪が青色に見える。この青色に見えるのは一般には錯誤と呼ばれている。

しかし、実は常に周りの風景を白色を中心とした色分布になるように(その時にもっとも色の分解能に対する人間の感覚が鋭くなる)脳が色彩の自動調節を行っているのであって、ゴーグルを外したときに雪が青く見えるのは、再度周りの状況に合わせてこの調整を元の状態に戻す間に生じていることなのである。

これはいいかえると、人は周りの状況と常に一体として生きるよう仕組み付けられている、もしくは脳がそのように働いているという事を示している。脳は当然それだけで存在している訳ではなくて、常に人の身体と共に共存し、そして身体を通して外界と相互に影響・作用し合っている。

しかもそのような周囲との関係は、遺伝子の中に記憶されている過去の情報や、人が生まれてからこれまで経験して来た出来事(これもいってしまえば周囲との相互作用)の上に成り立っている。これを著者は「脳の来歴」と呼んでいるが、人間の脳の働きとは、そのような脳の来歴をベースとしながら、現在の周囲の状況に常に人を適合させようとする働きと言い換える事も出来る。

しかもそのような周囲との関係は、単に物としての周囲の関係のみではなくて、人も含めた周囲との関係なのである。
例えば赤ん坊が転んで痛いので泣き叫んでいるとしよう。その時、母親が「痛いの?痛いのは嫌だけどいい子だから泣かないでがまんしましょうね。」と赤ん坊に問いかけることによって、赤ん坊は自分が転ぶことによって感じた感覚に「痛い」という名称をつける事が出来る。しかもそれに伴って生じた感情である「嫌い」にも名称をつける事が出来、さらにはそのような感情をコントロールすることの必要性をも知るのである。

このような人という環境条件との関係性は、赤ん坊の時代に限らず私たち大人にとってもコミュニケーションという日常の重要な行為を形作っている訳であり、脳は常に周囲の人との関係性の調節を行っているとも言える。

例えば何かを言った時に周りの人が引いてしまったとしよう。そうすると私たちは「あっ、何かまずいことを言ったかな」と自分の発言を反省する。これは自分の発言が周りの人の反応という形で自分にフィードバックされ自分の行動に影響を与える事を示している。つまり人は常に他の人も含めて周囲との関係性を良好にもしくは最適に保とうとしており、脳はその調整作業を行っているのである。

ここまでの話は大変良くわかる。問題はそれと「意識」がどう関係しているかという事である。

(続く)